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農耕社会の発展(湿田農耕、石包丁、高床倉庫、木臼と竪杵) | |||||||||||||||||||||||||||
1 | 私は千種川では下流、その支流では中流で生まれ育った時の体験です。千種川から支流に水が入るときは、大人の会話や行動から、子供ながらとても緊張したことを覚えています。水を堰止めて、上流から一斉に田植えをします。次に日には中流の地域が一斉に田植えをします。次の日は下流が一斉に田植えをします。 | ||||||||||||||||||||||||||
2 | 稲には太陽と水が不可欠 田植えの日までに代掻ができていなかったり、田植えそのものが出来なかった場合、田植えは下流まで行き、そして次に自分の地域まで回ってくるまで水不足で出来ません。昔から「田植えは山から、稲刈りは海から」と言われています。太陽と水が稲作には欠かせないのです。 | ||||||||||||||||||||||||||
3 | 田んぼのある子供にとって悲しいことは、小学校から「農繁期」は学校が休みになることです。田んぼのない子は遊んでいるのに、小学生には小学生の労働力が待っているのです。中学1年生になると、牛で田畑を鋤ける子供が「一人前」と称賛されるのです。高校生になると立派な「大人」として期待されています。その体験が今色々な面で役立っています。ペーパー上の優等生(受験の技巧には長けている者)は知識があるが、具体的な場面に直面すると知恵(生きる力)を発揮できない。様々な状況で種々の人間とのコミュニケーションを通して、知恵は身に付く。 | ||||||||||||||||||||||||||
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5 | 当時の農具から、農耕生活を復元してみました。 木鍬と木鋤ですから、相手は湿地です。ということは、現在のような乾田・田植え農耕でなく、湿田農耕であったことが分かります。田下駄を使い、米の籾を苗代・田植えでなく、湿田に直播きしました。 稲刈りには石包丁を使い、稲の根っこでなく、稲穂の首の細いところを、切り取りました。これを穂首刈りといいます。 貯蔵には貯蔵穴や高床倉庫を用いました。 稲穂から籾を脱穀する農具がありません。江戸時代になって、こき箸から千歯扱になりました。こき箸を使っていたのでしょうか。 精米には木の臼(木臼)と木の竪杵を使いました。お月さんで兎が餅をついている場面です。 | ||||||||||||||||||||||||||
水不足のとき強力な指導者が登場 | |||||||||||||||||||||||||||
1 | 太陽は天下の賜物ですから、文句の言いようがありません。しかし、水不足の時が大変です。水があり、その水が太陽によってある程度温められると正常な稲の枝分かれ(分けつ)が行われる。分欠が行われないと米の取れ高に影響する。下流の人は必死で水を集める。上流・中流の人は水泥棒を防止するために巡回に出ます。 あちこちで水争いが起こっています。ここに強力な指導者が必要になります。 | ||||||||||||||||||||||||||
2 | 私たちの田舎では、日中は堰留めの板の高さを決めています。水が板を越えて流れていきます。夜にはその板が1・2枚外されている。朝その板を元に戻す。お互いの指導者が水不足のとき考えた妥協案です。このルールをどちらかが破ると、大変なもめごとになります。この指導者が搾取と言う悪意を持ったとき歴史は変化したと思います。 |