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エピソード

007_01

中国史料に見る日本(漢委奴国王、洪武帝、金印、生口、倭国大乱)
 日本の起源はBC660年としていますが、残念ながら、紀元前後頃の記録が日本にはありません。文字のない時代のことがどうして分かるのかという疑問を解くには、文字の存在していた中国の記録を見るしか方法はありません。
 中国の記録で、中国・朝鮮の様子を見ます。
 前221年、が成立しました。
 前202年、前漢が成立しました。
 前108年、前漢の武帝は、朝鮮半島の西北部に楽浪郡・真番郡・玄菟郡・臨屯郡の4郡を設置しました。
 後25年、後漢が成立しました。
 後205年、遼東の大守公である尊康は、前漢の植民地である楽浪郡を支配し、楽浪郡の南部に、帯方郡を設置ました。
 後313年、楽浪郡が滅亡しました。
 次に、中国史料で、日本の様子を見ます。
 前1C頃、倭人の社会は100余国に分立し、定期的に楽浪郡に遣使を出していました(後漢の班固が書いた『漢書』地理志)。
  後57年、倭奴国王は、洛陽に遣使を出しました。後漢の洪武帝は、日本の遣使に印綬を与えました(宋の范嘩が書いた『後漢書』東夷伝)。
 後107年、「倭国王の師升らが、中国の皇帝である安帝生口(奴隷)160人を献上した」とあります(『後漢書』東夷伝)。ここには「王」と「奴隷」の存在が記録されています。どうしてこのような階級が誕生したのでしょうか。
 移動する動物や魚を求めての縄文時代には、生産性は低く、土地は無価値でした。余剰物資は保存が困難です。こういう社会では搾取するという観念が育たず、支配・被支配は成立しません。
 後147年、「倭国大乱、歴年主なし(〜189年)」とあります(『後漢書』東夷伝)。これを裏付ける遺跡があります。
(1)戦闘に備え、深い溝をほる環濠集落ができました。その代表が神奈川県の大塚遺跡です。
(2)戦闘に備え、逆茂木をめぐらせた集落ができました。その代表が愛知県の朝日遺跡です。
(3)戦闘に備え、山頂や丘陵上に高地性集落ができました。その代表が香川の紫雲出山遺跡です。
 1784年、福岡県の志賀島で金印が発見されました。それには、「漢委奴国王」と刻印されていました。これは後漢の洪武帝が倭奴国王に送った印綬ではないかとされています。印綬とは、印鑑とそれに付けている紐のことです。
私的所有権を宣言した者が戦争を起こし、奴隷を産み出す、金印の謎?
 ところが稲は固定した土地に毎年栽培されます。土地が多いほど米の収穫が多くなります。太陽がよく照り、水が豊富で、耕しやすい土地が価値を生み出します。米は腐らないので、余剰物資は保存できます。生産性がたかく、余剰人員も生まれます。そのうち水利権を管理するリーダーや、弥生の土器を制作する専門化が誕生しました。
 最初は人員のリーダーだった者の中から、土地の価値を見出し、「ここが私の土地だ」と私的所有権を宣言する指導者が出てきました。この指導者はより多くの土地を増やせばより多くの富を得ることを知りました。かれは力によって他人の土地を奪いました。抵抗した人々を奴隷としたのです。
 1784(天明4)年3月、百姓の甚兵衛は、「田んぼの畔から金印を発見した」と、福岡藩黒田家の代官所に届け出ました。金印の鑑定を依頼された儒学者らは、『後漢書』東夷伝に目を通しました。
 そこには、「建武中元二年、倭の奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜ふに印綬を以てす」とありました。
 この報告を受けた黒田家では、百姓の甚兵衛に白銀5枚を与えて、金印を引き取りました。
 金印については、いろいろな説があります。
 金印の実像です。刻印は「漢委奴国王」です。蛇の形をした紐通しが付いています。1辺の長さは2.347センチで、漢の1寸にあたります。材質は金95%・銀4.5%・銅0.5%で、重さは108.729グラムです。
 「漢委奴国王」の読み方でです。
(1)福岡藩の儒学者らは「委奴」をヤマトと読んで、天皇に授与したと解釈しました。
(2)福岡藩の藩校教授らは「委奴」を日本国の古名であると解釈していました。
(3)上田秋成らは「委奴」をイトと読んで、『魏志』倭人伝の伊都國と解釈し、「漢の委奴(いと)の国王」としました。
(4)三宅米吉は「委は倭の略字で日本国の古号、奴は福岡地方の古地名」と断定し、「漢の委(わ)の奴の国王」と読んで、「漢の国の属国である日本の福岡地方の国王」と解釈しました。
 学問というのは、分からない部分を解き明かしていくわけですから、本当に面白いですね。

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