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大陸文化の伝来(王仁、阿知使主、弓月君、司馬達等、勧勒、曇徴) | |
1 | 4世紀から7世紀にかけて、大陸からたくさんの人が日本にやって来ました。その人のことを渡来人といいます。 4世紀頃、朝鮮半島では、高句麗軍と日本軍が交戦しました。楽浪郡・帯方郡から避難してきたのが漢民族でした。 6世紀頃、百済や高句麗が滅亡して、韓民族が日本に避難してやってきました。 渡来しても、生活できる人は、外国で通用する技術を持っている人です。この真理は、今も昔も変わりません。 |
2 | 4世紀頃、来日した渡来人を調べてみました。『記紀』(『古事記』・『日本書紀』)に記録があることから渡来伝説と言います。彼らは伴造の下の品部に編入され、活躍しました。 (1)王仁が百済より渡来しました。漢の高祖の末裔で、百済に移住した子孫の王仁は、『論語』10巻・『千字文』1巻を招来しました。履中天皇の出納係となり、その子孫が西文氏です。日本の文筆に貢献しました。 (2)阿知使主が帯方郡17県の民を率いて渡来しました。後漢の霊帝の曾孫の阿知使主は、文筆を業とする史部を管理し、その子孫が東文氏です。日本の文筆に貢献しました。 (3)弓月君が渡来しました。秦の始皇帝の子孫である弓月君は、養蚕・機織を伝えました。その子孫が秦氏です。 |
3 | 6世紀頃、来日した渡来人を調べてみました。彼らは大王家や蘇我氏に仕え、活躍しました。 (1)513年、段楊爾ら五経博士が百済から渡来しました。『易経』・『詩経』・『春秋』・『礼記』の五経を講じ儒教を伝えました。 (2)522年、司馬達等が渡来しました。司馬達等は飛鳥の坂田原の私宅で仏像を礼拝しました(『扶桑略記』)。司馬達等の孫が鞍作鳥(止利仏師)で、その子孫が鞍作氏です。 (3)554年、医博士・易博士・暦博士が渡来しました。 (4)602年、百済僧の勧勒が渡来しまし、暦法・天文地理の書を伝えました。 (5)604年、初めて暦を使用しました。 (6)610年、高句麗僧の曇徴が渡来し、紙・墨・絵の具を伝えました。 (7)612年、百済人の味摩之が渡来し、伎楽舞を伝えました。 |
遠い親戚より近くの他人 | |
1 | 国宝第一号をご存知でしょうか。京都太秦の広隆寺にある弥勒菩薩(正式には半跏思惟像)です。この寺を建立したのは、朝鮮から渡来した秦氏の子孫である秦河勝です。 |
2 | 世阿弥の『花伝書』には秦河勝が蘇我氏のいじめにあい、私の住んでいる相生市の隣の坂越に着いたとあります。 坂越の神社では秦氏を祭神としています。毎年9月の行われる神事は国の重要無形文化財になっています。 千種川水系には秦氏を祭神としている神社がたくさんあります。 |
3 | 以上から分かるように、古代では朝鮮人(中国人も含め)は日本人の精神的・文化的な方面での先生でした。 最近韓国のTVドラマ「冬のソナタ」がブームとなったり、サッカーや野球で人的交流が行われるようになったりして、日韓関係は若者の間で、友好の度を深めているように見えます。古代のようにお互い文化的・精神的な交流をしたいものです。 |