print home

エピソード

012_01

大陸文化の伝来(王仁、阿知使主、弓月君、司馬達等、勧勒、曇徴)
 4世紀から7世紀にかけて、大陸からたくさんの人が日本にやって来ました。その人のことを渡来人といいます。
 4世紀頃、朝鮮半島では、高句麗軍と日本軍が交戦しました。楽浪郡・帯方郡から避難してきたのが漢民族でした。
 6世紀頃、百済や高句麗が滅亡して、韓民族が日本に避難してやってきました。
 渡来しても、生活できる人は、外国で通用する技術を持っている人です。この真理は、今も昔も変わりません。
 4世紀頃、来日した渡来人を調べてみました。『記紀』(『古事』・『日本書』)に記録があることから渡来伝説と言います。彼らは伴造の下の品部に編入され、活躍しました。
(1)王仁が百済より渡来しました。漢の高祖の末裔で、百済に移住した子孫の王仁は、『論語』10巻・『千字文』1巻を招来しました。履中天皇の出納係となり、その子孫が西文氏です。日本の文筆に貢献しました。
(2)阿知使主が帯方郡17県の民を率いて渡来しました。後漢の霊帝の曾孫の阿知使主は、文筆を業とする史部を管理し、その子孫が東文氏です。日本の文筆に貢献しました。
(3)弓月君が渡来しました。秦の始皇帝の子孫である弓月君は、養蚕機織を伝えました。その子孫が秦氏です。
 6世紀頃、来日した渡来人を調べてみました。彼らは大王家や蘇我氏に仕え、活躍しました。
(1)513年、段楊爾ら五経博士が百済から渡来しました。『易経』・『詩経』・『春秋』・『礼記』の五経を講じ儒教を伝えました。
(2)522年、司馬達等が渡来しました。司馬達等は飛鳥の坂田原の私宅で仏像を礼拝しました(『扶桑略記』)。司馬達等の孫が鞍作鳥止利仏師)で、その子孫が鞍作氏です。
(3)554年、医博士易博士暦博士が渡来しました。
(4)602年、百済僧の勧勒が渡来しまし、暦法天文地理の書を伝えました。
(5)604年、初めて暦を使用しました。
(6)610年、高句麗僧の曇徴が渡来し、絵の具を伝えました。
(7)612年、百済人の味摩之が渡来し、伎楽舞を伝えました。
遠い親戚より近くの他人
 国宝第一号をご存知でしょうか。京都太秦の広隆寺にある弥勒菩薩(正式には半跏思惟像)です。この寺を建立したのは、朝鮮から渡来した秦氏の子孫である秦河勝です。
 世阿弥の『花伝書』には秦河勝が蘇我氏のいじめにあい、私の住んでいる相生市の隣の坂越に着いたとあります。
 坂越の神社では秦氏を祭神としています。毎年9月の行われる神事は国の重要無形文化財になっています。
 千種川水系には秦氏を祭神としている神社がたくさんあります。
 以上から分かるように、古代では朝鮮人(中国人も含め)は日本人の精神的・文化的な方面での先生でした。
 最近韓国のTVドラマ「冬のソナタ」がブームとなったり、サッカーや野球で人的交流が行われるようになったりして、日韓関係は若者の間で、友好の度を深めているように見えます。古代のようにお互い文化的・精神的な交流をしたいものです。

index