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エピソード

013_01

古墳文化の変質(前方後円墳より群集墳へ)
 古墳文化の後期である7世紀になると、巨大な前方後円墳が作られなくなり、小さい古墳がたくさん作られるようになります。それは何故でしょうか。
 中国や朝鮮など文化の先進地では、巨大な古墳より、巨大な寺院に流行は変化していました。
 渡来人が伝えた鉄製の農具である鎌・鍬によって、乾田が本格的に灌漑され、有力な農民が台頭しました。彼らには巨大な古墳を作る経済力も時間もありませんでした。
 畿内などでは、後円部を横穴式石室に変化させます。奈良県の石舞台古墳は、巨石を用いた横穴式石室が露出したものです。
 構造は、前庭を進むと羨道(トンネル)があり、そこをさらに進むと、十数人が立てるような大きな部屋(玄室)に辿り着きます。そこには死体を入れる棺桶が置かれています。木製の棺桶には割竹形木棺があります。石製の棺桶には、家形石棺・舟形石棺・長持形石棺などがあります。
 性格は、閉塞石を取除くと、追葬が出来るようになっていて、首長墓から家族墓的な性格に変化しています。
 棺桶から出土された副葬品を見ると、死者に対して、飲食物関係の日常用具が発見されています。これは、古墳は死後の生活の場であるというように、来世感も変化してきた証拠です。
 玄室には、色々な壁画が描かれています。このような古墳を装飾古墳といいます。奈良の高松塚古墳や福岡の竹原古墳が有名です。
 地方では、有力農民は、群集墳が作るようになりました。
 長野の大室古墳では500基、埼玉の吉見百穴では237基、奈良の新沢千塚では593基、和歌山の岩橋千塚では520基、熊本の鍋田横穴群では55基などが有名です。
 7世紀には、畿内の古墳が消滅しました。8世紀には、関東の古墳が消滅しました。
ファッションはカタツムリ的に拡大する
 乾田を耕すには木製の農具では不可能ということは以前(エピソード009)にも紹介しました。この時代乾田が耕されたということは、新しい農具が開発されたということを意味します。つまり鉄製の鍬が登場しました。残念ながら、軍用の武器が民用の生活道具になることは歴史的事実です。
 この技術が地方に拡大すると、有力農民の間で中央のファッションである古墳を作り始めました。巨大な前方後円墳は作れません。小さな円墳です。その数が多いため、遠いから見るとそれは群集墳と写ります。
 その頃になると、中央の権力者は新しいファッションに目を移していました。つまり大陸から伝来した寺院を建立するというファッションです。
 文化が中央から地方へ蝸牛的に拡大します。そして、地方で流行しているファッションが定着して、新しい都会のファッションを受け入れ難くしていることがよくあります。このことを最初に指摘した人が柳田国男氏です(『蝸牛考』)。柳田氏は姫路より北へ少し行った福崎の人です。私の家より車で30分の所に柳田記念館があります。
 私の在職中の京都への1日旅行での体験です。高校生の間でロングスカートが流行した事があります。昼食後のことです。ファッションに敏感な女生徒数人がバスから降りません。理由を聞くと、食事中地元京都の高校生に声をかけられ、「あんたら、どこの田舎の高校生?」と言われたらしい。同じロングスカートでも、都会では一工夫しているらしい。私から見ると、「目くそ、鼻くそを笑う」程度のやり取りですが、ファッションに関心のある若者にとっては、無視できない表現だったのでしょう。

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