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エピソード

017_01

大王家の危機(仏教伝来、大伴金村、物部守屋、蘇我馬子)
仏教伝来の年に2説あり?
 日本人の生活に仏の教えは不可欠です。でも、仏教が日本に伝来した年が2説あるのです。その謎に迫ってみました。
 多くの書物が採用しているのが552年説です。これは『日本書紀』によっています。
 他方、聖徳太子の『上宮聖徳法王帝説』では538年説です。これを補強するのが『扶桑略記』です。
 487年、武烈天皇がなくなりました。20年間の天皇空位(混乱)時代を経て、大伴氏の支持を受けた継体天皇が即位しました。531年に継体天皇がなくなると、蘇我氏の支持で欽明天皇が即位しました。
 533年、物部・大伴氏の支持で安閑天皇が即位しました。二朝時代の始まりです。
 535年、安閑天皇の次に宣化天皇が即位しました。安閑天皇時代の538年に仏教が伝来したのですが、欽明天皇を支持する蘇我氏はこの事実を抹殺したのです。
 539年、宣化天皇がなくなり、欽明天皇一統の時代となりました。その552年に仏教が伝来したというわけです。
朝鮮半島と国内の情勢
 425年、高句麗が南下したので、日本と友好関係にある百済は、漢代→熊津→扶余と都を遷しました(南遷)。
 463年、吉備田狭は、いつも、妻の雅媛を自慢していました。それを聞いた雄略天皇は、吉備田狭が任那に出軍している留守をねらって雅媛を奪ったので、吉備氏の乱がおこりました(『日本書紀』)。
 479年、雄略天皇がなくなりました。雅媛は、自分と雄略との間に産まれた星川皇子を皇位に就けようとしました。これを知った大伴金村らは、このクーデタを鎮圧しました(星川皇子の乱)。吉備地方を支配しました。
 487年、武烈天皇(父は仁賢天皇)が亡くなりました。20年間の空位時代を迎えます。
 507年、継体天皇(父は応神天皇5世の孫)が即位しました(大伴氏の支持)。
 512年、大連の大伴金村は、任那4県を百済に割譲しました。
 520年、中国と友好関係にある新羅は、南方の加羅諸国(任那)を攻略しました。
 527年、近江臣毛野は、6万人を率い、新羅が任那に進出するのを阻止するために出発しました。
 527年、筑紫国造磐井は新羅と同盟し、近江臣毛野の任那救援を阻止しようと反乱をおこしました。
 528年、大連の物部麁鹿火は、磐井の反乱を鎮圧しました。筑紫地方を支配しました。
 531年、継体天皇が亡くなりました。欽明天皇(継体天皇の三男)が即位しました(蘇我氏の支持)。
 533年、安閑天皇(継体天皇の長男)が即位しました(物部・大伴氏の支持)。
 535年、安閑天皇の次に、宣化天皇(継体天皇の次男)が即位しました(物部・大伴氏の支持)。
 538年、百済は、扶余に遷都しました。
 538年、百済の聖明王は、日本に仏教を伝えました(『上宮聖徳法王帝説』)。以後も日本と百済は友好関係を保ちました。
 539年、宣化天皇が亡くなりました。
 540年、大連の大伴金村は、物部守屋から任那割譲問題を追求され、失脚しました。
 552年、仏教が伝来しました(『日本書紀』)。
 552年、大連の物部守屋は、仏教問題で、大臣の蘇我稲目と対立しました。
 562年、新羅は、任那の残りを併合しました。任那の日本府(官家)が滅亡し、日本の朝鮮における拠点を失いました。
 571年、欽明天皇が亡くなりました。
 572年、敏達天皇(欽明天皇の長男)が即位しました(蘇我氏の支持)。
 585年、敏達天皇が亡くなりました。用明(欽明天皇の次男)が即位しました。彦人大兄王(父は敏達天皇、母は広姫)が皇太子になりました。しかし、穴穂部皇子(父は欽明天皇、母は小姉君)はこの人事に不満を抱きました。
 587年、用明天皇が亡くなりました。
 587年、大臣の蘇我馬子は、穴穂部皇子を擁立しようとした大連の物部守屋を暗殺し、政権を独占しました。
 487年、武烈天皇(父は仁賢天皇)が亡くなりました。20年間の空位時代を迎えます。
 507年、継体天皇(父は応神天皇5世の孫)が即位しました。
 531年、欽明天皇(継体天皇の三男)が即位しました。
 533年、安閑天皇(継体天皇の長男)が即位しました。
 535年、安閑天皇の次に、宣化天皇(継体天皇の次男)が即位しました。
 539年、宣化天皇が亡くなりました。33年間の空位時代を迎えます。
 (571年、欽明天皇が亡くなりました)
 572年、敏達天皇(欽明天皇の長男)が即位しました。
 仏教伝来の年の2説と33年間の空位時代を解く鍵は、二朝時代の存在です。
欽明天皇(531) 欽明天皇(533〜539) 欽明天皇(539〜571) 敏達天皇(572)
安閑天皇(533) 宣化天皇(535)
@安閑天皇の538年に仏教が伝来しましたが、欽明天皇を支持する蘇我氏はこの事実を抹殺したのです。
A蘇我氏は、欽明天皇の552年に仏教が伝来したと公式に発表しました。
仏教伝来の年の2説は権力者の争いの副産物
 当時の古典的豪族である大伴・物部氏と経済力を牛耳る蘇我氏との権力争いが原因で誕生した物語です。538年説が有力です(ホットケホットケ(仏)、ごみ屋(538)さん)
 忠臣蔵のホームページをアップするまでは、教科書に出てくる全国の史跡めぐりをライフワークにしていました。
 岩戸山古墳にも行ってきました。筑紫国造磐井の墓といわれている所です。周囲を一望出来る高台にありました。全長が135メートルの前方後円墳なので、かなり大きな墓です。普通土製の埴輪が置かれる部分に、日本人の感覚では違和感を覚える石人や石馬がズラーッと並んでいました。
 当時の情勢から推測して、福岡の豪族は、大和より朝鮮半島を重視していたのではないかと考えられます。

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