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エピソード

018_01

推古朝の政治(聖徳太子と憲法十七条)
 一般に言われるように聖徳太子はすごかったのでしょうか。聖徳太子(厩戸王)の父用明天皇の父は欽明天皇ですが、用明天皇の母は蘇我稲目の娘堅塩姫です。推古天皇の父母も同じです。
 聖徳太子の母穴穂部間人皇女は蘇我稲目の娘小姉君の子供です。ということは用明天皇は母が稲目の長女堅塩姫で、妻が稲目の孫ということになります。聖徳太子も妻が稲目の孫(馬子の娘)ということになります。
 そんな人間関係ですから、崇峻天皇(聖徳太子の叔父、聖徳太子の母の弟で、聖徳太子の義兄=妻刀自古郎女の姉河上娘の夫)が殺されても、何も出来ませんでした。そんな聖徳太子が蘇我氏を相手に堂々と争ったという事はありません。自分の立場を立場を理解し、権力に阻害される事なく、将来に対して布石を打ったというということが正しいのではないでしょうか。
 冠位十二階にしても人材登用の位階制度となっていますが、蘇我氏は埒外でした。
 憲法十七条にしても蘇我氏に許可を貰ったことはありえます。しかし、権力者蘇我氏にきずかれないように手を打ったバランス感覚がすごいと思います。三宝を敬えとかいいながら、国に二人の主人はいない、国民にも二人の君主はいないといいつつ、将来の天皇制的中央集権国家を構想していたとは大したものです。
 その凄さの経過を見ていきます。
 581年、北朝からが誕生しました。
 589年、隋は、南朝の陳を滅ぼして南北朝を統一し、政治制度を整備しました。
 592年11月、蘇我馬子は、崇峻天皇(父は欽明天皇)を暗殺しました。
 12月、女帝である推古天皇(父は欽明天皇)が即位しました。時に39歳でした。
 12月、聖徳太子(父は用明天皇。推古天皇の甥)が皇太子になりました。時に19歳でした。
 593年、聖徳太子(別名は厩戸皇子・上宮王)が摂政になりました。20歳です。四天王寺を建立しました。
 594年、聖徳太子(21歳)は、仏教興隆の詔を出しました。
 598年、隋は、朝鮮北部の高句麗に出兵しました。その結果、東アジアの情勢に大きな影響を与えました。
 603年、聖徳太子(30歳)は、人材を登用するために冠位十二階を制定しました。
 604年、聖徳太子(31歳)は、日本最初の成文法である憲法十七条を制定しました。
 607年、聖徳太子(34歳)は、海外情報を得るために遣隋使を派遣しました。
 612年、隋の皇帝である煬帝は、高句麗に遠征しました。
 615年、聖徳太子は、三経義疏を完成させました。三経とは勝鬘経・維摩経・法華経で、義疏とは解説です。
 618年、隋が滅んで、が誕生しました。
 620年、聖徳太子は、天皇の権威・国家の威信を高めるために、『天皇記』・『国記』の編纂を開始しました。
 622年、聖徳太子が亡くなりました。時に49歳でした。
欽 明 天 皇 推古天皇
用 明 天 皇
蘇我稲目 ━‖━ 堅塩姫 ‖━━━ 聖徳太子
‖━ ━━━ 穴穂部間人皇女
小姉君 穴穂部皇子
崇 峻 天 皇
馬 子 ━━━ ━━河 上 娘
蝦夷
━━━━━━ 刀自古郎女
聖徳太子のすごさ、勝つ喧嘩をする
 昔、先導的なボスから情報を流され、義憤にかられた若者(私も含め)が会議で提案をつぶしにかかったことがありました。かなり影響力のあるボスは最後まで動きませんでした。賛否を採ったところが、義憤派の意見は少数で、否決された事がありました。その会議後、ボスに詰め寄ったことがありました。彼は静かに「何でも反対している時代は終わった。勝つ喧嘩をしないと…」と語りました。私は今もこの言葉の重みをヒシヒシと感じています。
 資料を集め、分析し、皆を説得できる自信が出来たとき、私は勝負をする。日本史の勉強とはそういうものではないでしょうか。
 多くの人が手をつけては否決された提案を余り抵抗もなく、賛成多数で可決できたのも、「勝つ喧嘩」の理論のお陰だと思っています。
 まさに聖徳太子は勝つ喧嘩の先祖だったのです。

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