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エピソード

019_01

隋との交渉(先進地に学べ、遣隋使の教訓)
 『日本書紀』によると「東天皇、敬みて西皇帝に曰す」とあります。それだけでなく中国の『隋書』倭国伝には「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」とあるといいます。東とは日の出、つまり上昇する国を意味します。西とは日没、つまり落目の国を意味します。
  この史料から多くの小説や概説書は、「聖徳太子は中国の王朝に対して対等の立場を主張した」と書いています。有名な小野妹子は大礼です。冠位にすると徳、仁、礼、義、智の三番目です。つまり高級官僚と言えます。逆に中国が派遣した裴世清は初位といいますから、下級官僚といえます。
 聖徳太子の意図は別として、中国ではそれほどの対応はしていなかったことが分かります。
 それよりも大切な事は、政治にしろ、経済にしろ、スポーツにしろ、先進地に学んで、そのよき所を学び、取り入れる姿勢です。
 昔、姫路に汽車が走ることになりました。姫路の中心街は姫路城の周囲にありました。多くの商店主は汽車の出す石炭の煙で商品が汚れるという、一般的な想像で、姫路駅周辺に出店を出すことを断念しました。一部の商店主は実際に駅周辺を見てから判断することにして、先進地を視察に行きました。その結果、商店は駅を中心に発展していることを学んで帰ってきました。彼らは当然駅周辺に出店を出しました。
 今、駅周辺は数十万都市姫路のシンボルとなっています。逆に江戸・明治と発展していた姫路城周辺は、車の出入りもままならぬ状態で、その子・孫たちは「あの時祖父が、父が姫路駅周辺に出店を出していてくれたら」と嘆いているそうです。
 622年に聖徳太子は蘇我氏の専横を見ながらなくなりました。しかし、聖徳太子が出した遣隋使は、隋・唐の発展を体験して帰ってきました。640年に帰ってきた高向玄理や南淵請安らは5年後の大化の改新に大きな役割を果たしました。「太子死んで蘇我氏を滅ぼす」
同じ物を見ても、行動する人のみが歴史を動かす
 昔から同じ物を見ても、何も感じない人、感じるだけの人、感じたら行動する人がいるといいます。家庭でも、地域でも、職場でも、感じて行動する人がエネルギーになっています。今は机上の知識を重要視する時代ですが、エネルギーに転換できません。
 気がついたら行動する人を重宝がる時代になって欲しいものです。聖徳太子が一番気になっていることではないでしょうか。

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