print home

エピソード

020_01

飛鳥文化(飛鳥寺、四天王寺、広隆寺、法隆寺、中宮寺)
 私の小学校時代、カバヤのキャラメルを買い、点数を集めて文学全集を集めるのが一番の楽しみでした。二度楽しめたのです。弁当に玉子焼きが入っていると、「おまえんとこ、金持ちやなー」と言われていた時代でもあります。
 そんな時、小学校の講堂でバイオリンの演奏会がありました。私と同じくらいの小学生の女の子が数曲弾きました。どんな曲かは全く覚えていないが、「この時代にこんなことをしている子供もいるんだな」と感じたことを今も鮮明に覚えています。
 後に、その子が赤穂の有名な会社の社長のお嬢さんでありことを知りました。また坂越から海沿いに赤穂御崎を向かう途中に洋風の洒落た、一見しただけで見とれる家がありました。その家が彼女の家であることも知りました。バカデカイ家はよくあるが、記憶に残る家は、ファッション性がありました。今も研究室として残っていると聞きます。
 飛鳥時代、ファッション性があって、偉大な建物は寺院です。古墳が地方の豪族のファッションとして定着する一方、中央の貴族たちは古墳に変わる新しい権力・権威の象徴として世界性のある寺院に目を奪われたのです。
 588年、蘇我馬子は、飛鳥寺(法興寺、別名元興寺)を建立しました。
 593年、聖徳太子は、四天王像をつくって戦勝祈願し、その結果四天王寺を建立しました。
 603年、秦 河勝は、広隆寺を建立しました。
 607年、聖徳太子は、用明天皇の病気平復を祈願して、法隆寺(別名斑鳩寺)を建立しました。
 621年、聖徳太子は、母である穴穂部間人皇后の菩提を弔うために中宮寺を建立しました。
 622年、山背大兄王は、父である聖徳太子の命で法輪寺を建立しました。
 624年、この段階で、寺院は46か寺、僧は810人・尼(569人に達しています。
ファッションがあって、偉大な建物は、人の記憶に残る
 学生時代の私は実務を優先していたため、学生運動には批判的でしたが、やはり権威や権力的なものには否定的でした。
 しかし、戦国時代の雪舟にしても、現代の版画家棟方画伯にしてもパトロンなしでは傑作を産み出しえなかったといえます。金は文化遺産として現在に甦る、そういう活きた使い方をしたいものです。金のない者の発言ですが…

index