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エピソード

020_02

飛鳥文化(伽藍配置の変遷)
 いつの頃か忘れましたが、姫路市がインドのガンジー首相から、御釈迦さん(仏)の骨(舎利)をプレゼントされ、仏舎利塔を作りました。多くの人はその塔の高さにびっくりし、仏さんの骨がその中に入っている事には、特別な感慨はなかったようです。説明も余りなかったせいかも知れませんが…。
(1)飛鳥寺では、その意味を理解して仏舎利塔()が伽藍の真ん中のあります。
(2)四天王寺では、左右の金堂が1宇になり、仏舎利塔はまだ伽藍の中心に置かれています。
(3)法隆寺になると、意味が微妙に変化して、西に塔、東に金堂という伽藍になりました。
(4)薬師寺では、伽藍の中央にありますが、東西2つの塔というように装飾的に変貌しました。
(5)東大寺では、僧侶が人が集まる金堂が中心になり、塔は中門の外に出され、全く装飾的になりました。
(6)大安寺では、塔が伽藍の外、南大門の前に置かれ、全く形式化してしまいました。
講堂
金堂
金堂 金堂
中門
南大門
講堂
金堂
中門
南大門
講堂
金堂
中門
南大門
講堂
金堂
中門
南大門
講堂
金堂
中門
南大門
講堂
金堂
中門
南大門
飛鳥寺式 四天王寺式 法隆寺式 薬師寺式 東大寺式 大安寺式
 仏教にとって、一番重要な仏舎利塔が、どうして、装飾的に形式化してしまったのでしょうか。
 仏舎利塔は立っているだけで、何も変化がありません。金堂は重要な仏像などがあっても、いつも開いているわけではありません。僧のいる講堂、信者が集まる講堂が一番近しい場所になります。そこには、本尊の仏像が安置されています。
 僧侶も、本尊があり、自分たちの読経している場所を、ついつい重視するようになます。本質より形式が重んじられるのは、宗教だけとは限りませんが…。
 今の既成仏教も、親鸞時代の生きた教えから、仏壇を守る形式的な葬式仏教になっています。大きな建物を建てると、それを維持するために、お金が要ります。
 だから原始キリスト教は建物を必要とせず、親鸞は真心がこもっておれば米の一粒、豆の一粒でもいいと、お布施の意味を語っています。
仏舎利とは仏の骨のこと、今も昔も本質を守るのは大変
 足を太ももの下に折りたたんで座るのが正座だと皆さんは思っていませんか。葬式には黒い服で参列するのが常識だと思っていませんか。
 戦国時代の写真を見ると、主君の前の正座はアグラなんです。お釈迦様は半跏思惟の姿をとっています。半分アグラをかいて、半分足を下に投げ出しています。
 葬式も故人を偲んで参列するのが本意で、服装で出席するのではないのです。私は通夜には平服で参列します。生徒から「先生だけやで、そんな服装で来ているの。私ら恥ずかしい」とよく文句を言われたものです。
 しかし、授業中に聞き、遠くから駆けつけたので、平服のままの卒業生と出会うことがあります。平服の私を見てやって来て、「こんな服でも焼香できますか」と聞きます。私は「何を言うとるんや。来てくれただけで喜んでいるんやで」と言い聞かせます。彼らは納得して、堂々と焼香をして行きました。
 親戚の法事に行っても、ほとんどの人は、上から下まで黒服・黒靴下で出席しています。私は、平服で、靴下は白です。初めて私を見た人はびっくりするようです。しかし、日頃の私の言動を知っている人は、特に意識しません。坊さんの足袋は、実は白色なんです。どうして、いつの間に、黒にこだわりようになったのでしょうね。
 私はこんな人がいる限り、変人と言われても本質を守りたいと思っています。

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