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エピソード

021_01

大化の改新の背景(律令と唐・新羅の国家統一)
 とは刑法のことです。とは行政法のことです。
 均田制とは「」を「」しく区分して、分け与える度です。日本では、条里制班田収授のことです。田地を6町四方に区画し、一辺を「条」といい、他辺を「里」とよびます。1辺は6町=6坪=約648メートルです。1里は36坪(6坪=6町×6坪=6町)で形成されました。田地の所在は何条何里何坪と表示しました。
 全国一律に、一定の田地を与え、それに応じて税を徴収しました。税の種類には租・調・庸などがあります。
 は均田制と租調庸制と律令法を取り入れて強大な中央集権国家を形成しました。
 新羅も唐の律令制を採用して、朝鮮半島を統一し、強大な中央集権国家を形成しました。
 7世紀の中国・朝鮮・日本の情勢を見ます。
 589年、が滅亡しました。
 618年、が誕生しました。
(1)北朝から隋にかけて発達した均田制・租調庸制に唐の律令法を加味しました。
(2)その結果、強大な中央主権国家を形成しました。
 622年、摂政の聖徳太子が亡くなりました。
 623年、蘇我蝦夷(父は蘇我馬子)が大臣になり、実権を掌握しました。
 627年、太宗(李世民)の時、唐はより強大となりました。これを貞観の治といいます。
 628年、推古天皇(75歳)が亡くなり、舒明天皇(祖父は敏達天皇)が即位しました・時に36歳でした。
 630年、蘇我蝦夷は、犬上御田鍬を正使として、遣唐使を派遣しました。
 632年、遣隋使僧旻が帰朝しました。僧旻の門下生には、中臣鎌子(19歳)・蘇我入鹿がいました。
 640年、遣隋使の高向玄理南淵請安が帰朝しました。南淵請安の門下生には、中臣鎌子(27歳)・中大兄皇子(25歳)がいました。中大兄皇子らは唐や新羅の情勢を知りました。
 641年、皇極天皇(舒明天皇の皇后)が即位しました。時に48歳でした。古人大兄皇子(父は舒明天皇)が皇太子になりました。
 643年、蘇我入鹿(父は蝦夷)らは、有力な皇位継承者である山背大兄王(父は聖徳太子)を暗殺しました。
 644年、蘇我入鹿は、父の蘇我蝦夷の家を「上の宮」、入鹿の家を「谷の家門」と名ずけました。
 645年、唐は、朝鮮の高句麗に6回も遠征しました。
 676年、新羅は、高句麗が侵略を受けている間に、朝鮮半島を統一しました。
 中国では律令を採用した唐が発展し、朝鮮では律令を採用した新羅が発展しました。
 しかし、当時の日本では、豪族が自分の私地を兼併し、針を指すような土地もない(「容針少地なし」)状態でした。唐や新羅の情報を知った中大兄皇子・中臣鎌子らは、天皇中心の中央集権国家を樹立しようとしました。
先進地域から生きた知恵を学ぶ、釜足と中大兄、山背大兄王の変
 NO.19のエピソードでも書きましたが、学問・研究にしても、商売にしても、成功させる秘訣は、先進地域から学ぶことです。
 遣唐使が日本の中央集権化に有効だったのは、彼らが唐の強大化した理由を正確に学んだということです。そして彼らの知識を、当時の日本の指導者が採用し、日本の歴史や風土に合うように加工したということです。いつの時代でもあてはまる真理だと思います。
 飛鳥の法興寺で蹴鞠の会がありました。中大兄王皇子が蹴鞠をけった時に、沓が脱げて中臣鎌足のところを飛んでいきました。沓を拾った釜足は、中大兄王に渡しました。これがきっかけで、言葉を交わすようになました。
 しかし、私はすでに南淵請安の家に2人は勉強に行っており、逆に親しくすると、権力者は常にスパイを放ち、自分の権力を維持しようとしますから、そんな不用意に言葉を交わすことはないと思います。
 故意に沓を鎌足の所へ蹴り、釜足が沓を渡す時、中大兄の目と会い、お互いを確信しあったと思います。中大兄は天皇の直系であり、中臣家は天皇家の発展と共に権力を拡大してきた家柄です。利害は一致しています。
 奈良県桜井市の多武峰にある談山神社には、重要文化財の十三重塔があります。高さが13メートルもあり、私の好きなユニークな塔です。なぜ談山かというと、中大兄と中臣鎌足がこので蘇我氏打倒を相したからだと言われています。
 次に、山背大兄王の変をみます。
 622年、聖徳太子が亡くなりました。
 624年、蘇我馬子は、推古天皇に、蘇我氏とかかわりの深い葛城県を蘇我氏の領地を懇願しましたが、拒否されました。聖徳太子の生前にはなかった天皇家と蘇我氏の対立が表面化してきました。
 626年、蘇我馬子が亡くなって、蘇我蝦夷が大臣となりました。
 627年、推古天皇(74歳)は、死の直前に、敏達天皇の孫である田村皇子に「皇位について民政をみるように」といい、聖徳太子の皇子である山背大兄王には「未だ若いのだから、衆言に従いなさい」と遺言しました。
 蘇我蝦夷は、自分の妹婿の田村皇子を支持しました。阿倍・大伴・高向・采女・中臣・難波の6氏が賛成し、弟の倉山田石川麻呂は賛否を保留し、巨勢・佐伯・紀の3氏が反対しました。
 628年、推古天皇がなくなりました。山背大兄王は「自分は亡き天皇から国事を託されている」として、遺勅の真相を求めました。多勢が沈黙する中、山背大兄王を支持する境部臣摩理勢は、斑鳩宮に駆け込んで動こうともしませんでしたが、山背大兄王の説得されて、その場を引き上げました。10日後、境部臣摩理勢は、蘇我蝦夷連合軍によって殺害されました。
 629年、山背大兄王が斑鳩宮に隠棲したので、田村皇子が即位して、舒明天皇となりました。時に37歳でした。
 642年、舒明天皇が亡くなると、皇太子の中大兄皇子は17歳でしたが、皇后の宝皇女が即位して、皇極天皇となりました。舒明天皇と皇極天皇は、叔父と姪の関係です。
 蘇我氏では、軟弱な蝦夷に代わって息子の入鹿が実権を握りました。
 643年、皇極天皇は、生母の吉備女王が病死したので、すっかり弱気になり、周囲に譲位の気をもらしました。それを知った蘇我入鹿は、人気のある山背大兄王(父は聖徳太子)を差し置いて、古人大兄王(父は舒明天皇、母は入鹿の姪の法堤郎女)を支持しました。古人大兄王側に参軍したのは、皇極天皇の弟軽皇子や巨勢・大伴・中臣・土師氏らでした。
 実際に出撃したのは、軽皇子の側近である巨勢徳太でした。巨勢徳太を中心とした連合軍が突然、山背大兄王の斑鳩宮を襲いました。山背大兄王は、斑鳩宮に火をつけ、馬の骨を投入れて、生駒山に逃げました。連合軍は、骨を見て、山背大兄王が死んだものと思い込み引上げました。
 山背大兄王は、5日間飲まず食わず耐えましたが、生存説が蘇我入鹿らに分かり、再度攻撃を受けました。死を悟った山背大兄王は、斑鳩に帰り、一族と共に自害しました。
 従来は、蘇我入鹿が古人大兄王の即位に邪魔な山背大兄王を殺害したとされていました。しかし、よく史料を検討してみると、皇極天皇の弟軽皇子(後の孝徳天皇)側も山背大兄王の暗殺に積極的に加担したことが分かりました。
 最近(2005年8月)の「小泉劇場」ではないですが、ストーリは単純で、黒(反対)白(賛成)に焦点化し、自分を悪を征伐する善人に仕立てれば、聴衆は拍手喝采です。こういう手法を衆愚劇場(私の造語)といいます。大切な本質が隠されてしまいます。
軽皇子
茅 淳 王 宝皇女(皇極)
広 姫  ‖━ 中大兄
‖━━ 押坂彦人 ━━━━━ 田村皇子(舒明天皇)
敏達天皇
‖━━━ 竹田皇子
欽明天皇 推古天皇 菟道貝蛸皇女
用明天皇  ‖━ 古人
‖━ 堅塩姫 ‖━━ 聖 徳 太 子
‖━ ━━ 穴穂部間人
小姉君     ‖━━━ 山背
馬 子 ━━ 蝦夷━入鹿
━━━━━ 刀自古郎女
━━━━━ ━━━━━━ ━━━━━ 法堤郎女
倉 麻 呂 倉山田石川麻呂

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