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エピソード

021_02

教育実習生の「大化の改新」は何故か皇国史観的授業になっている
 2年生の日本史を担当する場合、大体教育実習生を指導することになります。教育実習生は6月の第1月曜日から受け入れます。授業を参観したあと、実習し、研究授業は大体「大化の改新」あたりになります。
 教育実習生の授業の多くは、皇国史観的な内容になっています。豪族の蘇我入鹿が有力な皇位継承者であり、父を聖徳太子にもつ山背大兄王を暗殺しました。入鹿は父蝦夷の家を「上の宮」と名付けたりしました。また私地私民を支配して、国家の土地は「針さすばかりの地もなし」の状態でした。
 遣唐使の唐における知識を導入して、王族中心の中央集権国家体制を樹立しようとしました。中大兄皇子は中臣鎌足らの協力を得て、入鹿を滅ぼしました。
 「山背大兄王の暗殺」では、次のようになります。
 山背大兄王は、「蘇我入鹿の軍と戦っては百姓が迷惑をこうむる。自分1人が犠牲になればいい」(「百姓を傷りそこなわんことを欲りせじ。このゆえにわが一つの身をば入鹿に賜わん」)と言って自害しました。
 入鹿軍が生駒山へ攻めてくると、山背大兄王は、斑鳩宮へもどり、仏に手をあわせながら、妻や子どもたちと一緒に自害しました。
 平和主義者の山背大兄王は、生駒山を囲まれると、山を下って斑鳩寺に入り、入鹿の軍兵に囲まれながら、粛然と死んでいきました。
 しかし、実際はどうだったのか、実証してみたいと思います。
 山背大兄王は、自分1人が犠牲になったのでなく、妻や子供や一族を道連れにしています。
 山背大兄王は、仏教を崇拝していたことは事実です。しかし、妻や子供らと道連れに自害をしています。
 山背大兄王は、王位継承を主張しており、政争の渦中の人物です。斑鳩宮で戦って生駒山に逃げていったのですから、単純に平和主義者とは断定できません。
 前の項で述べましたが、山背大兄王の暗殺には、皇極天皇の弟軽皇子(後の孝徳天皇)も参加しています。
 次に、大化の改新の経過を見ましょう。
 628年、推古天皇が亡くなると、山背大兄王を抑えて、田村皇子が即位し、舒明天皇となりました。舒明天皇の皇子である古人大兄皇子を押す敏達天皇・蘇我氏らのグループの陰謀です。
 642年、舒明天皇が亡くなると、山背大兄王を抑えて、舒明天皇の皇后が即位して、皇極天皇となりました。
 643年1月、蘇我蝦夷は、国中の民を徴発し、大陵(蝦夷の墓)と小陵(入鹿の墓)を造営しました。
 10月6日、蘇我蝦夷はが病で出仕出来なくなり、ひそかに紫冠を入鹿に授け、大臣の位に擬しました。
 10月12日、蘇我入鹿らは、山背大兄王を廃し、古人大兄皇子を天皇に立てようと謀りました。
 11月、蘇我入鹿は、巨勢徳太の臣、土師娑婆の連らを遣わして、山背大兄王を襲撃させます。山背大兄王が山中で生きのびていることを知り、入鹿は、自ら出陣しようとしましたが、古人大兄皇子に制止されました。皇極天皇の弟軽皇子を押す皇極天皇・蘇我氏らのグループの陰謀です。これが山背大兄王の変です。
 644年6月、剣池では、蓮の1本の茎に2つの花が咲きました。不吉な前兆とする噂が流れました。
 11月、蘇我蝦夷・入鹿父子は、甘檮岡に邸宅を建てました。この時、暇夷の家を上の宮門、入鹿の家を谷の宮門と名づけ、子供たちを王子と呼びました。
 ここで、問題点を整理します。
 蘇我蝦夷は、自分の墓に大陵、子供の入鹿の墓に小陵と名付けました。陵は天皇の墓のみに許された名称です。
 紫冠は臣下最高の者に与えられる冠で、臣下の親が臣下の子も与えるものではなく、天皇が与えるものです。
 宮とか王子は天皇家に許される呼称です。
 つまり、蘇我氏は、天皇家を冒涜したとで、誅罰されても当然という歴史観が背景にあります。しかし、この歴史書は蘇我氏を滅ぼした側の立場で書かれています。史料は、一部でなく全体を使用して推測する必要があります。
 いよいよ入鹿暗殺の日です。
 645年6月、中臣鎌足は、蘇我氏の宗家に批判的な蘇我倉山田石川麻呂を味方にするため、石川麻呂の娘を中大兄皇子と結婚させました。次に、鎌足は、武門の佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田を味方にしました。
 6月12日、三韓(高句麗・百済・新羅)進貢の日に、蘇我入鹿は紫冠を付けて飛鳥板葺宮に入りました。側には古人大兄王が座ります。入鹿は、天皇の前で変事は無いと信じていました。
 皇極天皇が大極殿 に入り、進貢の儀式が始まると、中大兄皇子は宮廷の12門の閉鎖を命じました。蘇我倉山田石川麻呂が三韓の上表文を読んでいる間に、佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田が蘇我入鹿に斬りかかる計画でした。上表文の終わりの頃にも、刺客の2人は出てきません。石川麻呂の声が乱れ、手が震えます。入鹿がそれを咎めると、石川麻呂は「大君の御前のまじかなので」と答えるのに精一杯でした。
 そこで、中大兄皇子は、長い鎗で入鹿を刺しました。子麻呂も入鹿の首から肩に斬りつけました。入鹿は皇極天皇の前に転げて、助けを求めました。驚いた天皇が中大兄皇子に問い質すと、中大兄皇子は「鞍作(入鹿)が天位を傾けようとしています」と答えました。聞き終わった天皇は玉座をおりて宮殿の奥に姿を消した。子麻呂と網田が入鹿にとどめをさしました。死体は庭に横たえられ、ムシロで被われました。
 その後、中大兄皇子は、法興寺を拠点として、蘇我氏との戦いに備えましたが、反撃はなく、皇族・貴族の多くは中大兄皇子側につきました。これが乙巳の変です。
 乙巳の変以降を調べました。
 6月13日、蘇我蝦夷は、「天皇記」「国記」に火を放ち、自害しました。これで蘇我氏の宗家は滅びました。
 船恵尺が火中より「国記」を取り出し、中大兄皇子に献じた。
 6月14日、皇極天皇が譲位し、中大兄皇子の叔父である軽皇子が即位して、孝徳天皇となりました。中大兄皇子は皇太子になりました。
 6月14日、孝徳天皇は、阿倍内麻呂を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣、中臣鎌足を内臣、僧のと留学生の高向玄理を国博士に任命しました。
 6月19日、最初の年号を大化としました。
 8月、戸籍の作成を命じたり、東国に国司を任命したりしました。
 9月、中大兄王は、古人大兄王を暗殺しました。これを古人大兄王の変といいます。
 12月、難波の長柄豊崎宮に遷都しました。
 646年1月1日、改新の詔を発表しました。
 649年、中大兄王皇子は、蘇我倉山田石川麻呂を自害させました。これを蘇我倉山田石川麻呂の変といいます。
 乙巳の変後、即位したのが軽皇子(後の孝徳天皇)でした。このクーデタは、皇極天皇・軽皇子のシナリオという説が有力です。
 その後、中大兄皇子は、次々とライバルである古人大兄王・蘇我倉山田石川麻呂を暗殺しました。次には、孝徳天皇を病死させます。最後には、孝徳天皇の皇子である有間皇子をも処刑します。高邁の理論があったかもしれませんが、権力争いだったことは否定できません。
 改新の詔で、地方行政区画の国・郡・里を制定したことになっています。「郡」という文字は、大宝律令(701年)が初出で、それ以前は「評」という文字が使用されていました。改新の詔を全て信ずるわけにはいきません。
 ここでは、天皇に味方をする者を善、反対する者を悪とする皇国史観的な物の見方をあえて否定する立場から意見を述べました。1つの史料でも色々な味方があるということを示すためです。
 私が指導する教育実習生は、最初はとまどっていましたが、そのような立場も必要だと理解するようになりました。
歴史は単純な善悪では計れない、複雑怪奇なドラマである
 ここでは天皇に対立するのが悪で、天皇の協力するのが善という、単純な皇国史観的歴史観が展開される。
 中大兄皇子は蘇我氏系ではあるが、大王継承候補であった古人大兄王や孝徳天皇の皇子有間皇子を暗殺しています。その結果中央集権化が進んでいったのです。
 古い制度を打倒して新しい制度が誕生します。歴史が進む上では必然です。新しい制度の視点から見れば、古い制度は否定される運命にあります。しかし、古い制度も以前はより古い制度を打倒して誕生した必然の制度だったのです。
 飛鳥寺の西の田圃の中に、蘇我入鹿の首塚があります。乙巳の変で、切られた入鹿の首が中臣鎌足をどこまでも追いかけ、この地に留まりました。そこで、供養のために五輪塔を建てたといいます。鎌足は、結局、多武峰まで逃げたといわれています。
 江戸時代の国学者である本居宣長は、「田のあぜに入鹿の首塚という五輪の石が埋もれている」と確認しています。
 五輪塔には、一石五輪と各石五輪があります。入鹿の首塚は、法輪の2石が一石五輪の一部で、その下部は各石五輪です。同じ材質でもなし、全体のフォームはアンバランスです。
 寄せ集めの感じですが、入鹿らしい雰囲気で、楽しかったです。

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