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エピソード

022_02

律令国家の形成U(天智天皇、白村江の戦い、近江宮、庚午年籍)
 中大兄皇子は、乙巳の変後、朝廷内の不満分子のエネルギーを発散するように、毎年のように、大和朝廷に服属しない東北地方へ外征を繰り返しています。
 他方、律令制により唐は強大な中央集権国家を実現しました。新羅も唐から律令制を学んで、朝鮮半島を統一しようとしました。
 646年、中大兄皇子は、任那の滅亡を認めず、新羅から「任那の調」を取り立てていたのをやめて、新羅の任那領有権を認める代わりに、国王の身代わりとして人質を出させました。その人が金春秋でした。
 651年、新羅は、唐に朝貢し、唐朝の礼服・年号を採用して、日本と対抗するようになりました。
 657年、日本は、新羅に使いを出して、共に入唐を勧めましたが、新羅をこれを拒否しました。
 658年、阿倍比羅夫は、粛慎を討伐する。
 659年、阿倍臣は、蝦夷を討伐しました。
 659年、新羅は、日本が唐に接近することを妨害しました。その結果、日本の遣唐使である津守連吉祥らは、唐に幽閉されました。日本の外交はピンチに陥りました。
 660年5月、中大兄皇子は、初めて漏剋(水時計)を作りました。
 7月、百済は、唐・新羅連合軍に大敗し、国王の義慈王が捕らえられました。
 9月、百済から2人の重臣が来朝し、「唐・新羅連合軍により百済は滅亡の危機にあったが、鬼室福信が奮闘して持ちこたえている」と報告し、救援軍を要請しました。
 10月、百済の使者が来朝し、百済の将軍である鬼室福信の伝言を伝えました。それには「日本にいる人質の余豊璋(百済の王子)を帰国させて欲しい」とありました。つまり、捕らわれの王に代わって余豊璋を王位に迎え、百済の再興を図ろうというのです。
 12月、外国遠征は、一国の大事業です。特に大国の唐と交戦するのです。しかし、評議を受けると中大兄皇子は、百済救援を決定しました。難波宮で武器の調達を開始しました。
 661年1月6日、、中大兄皇子は、百済救援のため、母である斉明天皇・弟大海人皇子・大田皇女らと共に、難波津を出兵しました。
 1月8日、吉備大伯海で、大伯皇女(父は大海人皇子、母は大田皇女)が生まれました。
 1月14日、、一行は、伊予熟田津(松山市)に着きました。一行は、石湯行宮(今の道後温泉)で長期滞在しました。熟田津を出発する時、斉明天皇が詠んだ有名な歌が『万葉集』にあります。
 「熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今はこぎいでな」
 3月25日、一行は、那大津(博多)に着き、長津宮に入りました。
 5月9日、一行は、博多から40キロも内陸の朝倉橘広庭宮に移りました。朝倉宮の造営のために、麻弖良布神社の神木を切り払ったので、朝倉宮に落雷があったり、宮中に鬼火が出たりして、多くの病死者が出ました。
 7月24日、斉明天皇(67歳)も、朝倉宮で、病死しました。『日本書紀』には、朝倉山の上に、鬼が大きな笠をつけて、女帝の葬儀の様子を伺っていたと記しています。
 7月24日、中大兄皇子は、皇太子として喪に服したまま、長津宮で戦いの指揮をしました。これを中大兄皇子の称制といいます。称制とは、即位の儀式をしないで実務をすることです。
 8月、阿倍比羅夫らを将軍として派遣しました。
 10月、中大兄皇子は、いったん母である斉明天皇の遺体を大和まで運びました。その後、中大兄皇子は、大宰府に斉明天皇を追悼するため観世音寺の建立を発願しました。これが後の戒壇院です。
 662年1月、鬼室福信に兵器・兵糧を与えました。
 5月、阿倍比羅夫は、1万の兵と170隻を率いて、王子の扶余豊璋を百済に護送しました。豊璋が王位につきました。
 663年3月、上毛野稚子ら3軍の将は、2万7000の兵を率いて、朝鮮に出兵しました。
 6月、豊璋王は、謀叛の疑いで、将軍の鬼室福信を斬り、曝首にするために酢漬けにしました。
 8月、新羅は、豊璋王が良将鬼室福信を斬ったことを知り、直ちに攻め入りました。豊璋王は、「日本の救援軍が来るまでここ周留城で耐えよ。自分は白村江で出迎える」と命じました。
 8月、唐は増援軍7000人を派遣しました。そこで、唐・新羅連合軍は、水・陸から進軍して、日本・百済連合軍を挟撃することに決めました。
 8月17日、新羅軍は、百済復興軍の拠点である周留城を囲みました。唐軍は、軍船170隻を率いて白村江(錦江の河口)に陣をしきました。
 8月27日、日本・百済連合軍4万人・400隻は、鬼室福信暗殺事件により白村江への到着が遅れました。しかし、準備もせぬまま「我ら先を争わば、彼自づからに退くべし」と待機している唐・新羅連合軍めがけて突撃しました。
 8月28日、唐の水軍170隻に挟撃された日本水軍の400隻は、炎上してしまいました。朝鮮の『三国史記』は「日本・百済の船は火災につつまれて次々と沈没し、海に呑まれる兵士は数知れず、炎は天を焦がし、海の水は朱に染まった」と記述しています。この時、王の扶餘豊璋は脱走し、行方不明となりました。「高句麗に逃げたのだろう」と噂されたということです。敵前逃亡です。
 8月28日、王子の扶餘忠勝・忠志らが降服しました。
 9月7日、百済の周留城が陥落し、百済は滅亡しました。日本の友好国がついになくなったのです。
 9月24、日本軍は、百済の王族や大量の遺民と共に帰国しました。その中には、鬼室福信の子である鬼室集斯もいました。これを白村江の戦いといいます。
 664年2月、部曲を復活させて、氏上・民部・家部を設定しました。
 2月、冠位二十六階を制定しました。
 5月、唐使の郭務宗らが来朝しました。
 664年、この年、対馬・壱岐に防人・烽火、筑紫に水城を設置しました。
 665年8月、筑紫に大野城や基肄城、長門に朝鮮式の山城(長門城)を築きました。
 9月、唐使の劉徳高らが来朝しました。
 665年、この年、守大石らを唐に派遣しました。
 667年3月、中大兄皇子は、飛鳥より近江宮(大津市)に遷都しました。
 11月、遣唐使境部石積らが帰国しました。
 11月、大和に高安城、讃岐に屋島城、対馬に金田城を築きました。
 668年1月、中大兄皇子が即位して、天智天皇となりました。時に43歳でした。
 668年10月、唐・新羅連合軍は、朝鮮北部の高句麗を滅ぼしました。
 669年10月15日、天智天皇は、中臣鎌足大織冠を授け、藤原の姓を与えました。
 10月16日、藤原鎌足(56歳)が亡くなりました。
 669年、この年、河内鯨らを唐に派遣しました。
 670年2月、日本最初の全国的な戸籍をつくりました。これが庚午年籍です。
 671年1月、大友皇子を太政大臣とし、5人の重臣を大臣・御史大夫を任命しました。この時、蘇我赤兄が左大臣に抜擢されました。
 1月、日本で最初の令である近江令を発布しました。
 4月、漏剋を置き、初めて鐘・鼓を以て時刻を知らせました。
 10月、天智天皇は、大海人皇子を病床に呼んで後事を託しました。大海人皇子は、病弱を理由に固辞し、大后(倭姫)への譲位と大友皇子の執政を提言して、出家の許可を求めました。天智天皇は、これを許しました。大海人皇子は、直ちに吉野に逃れ、隠棲しました。
 12月、天智天皇が亡くなりました。時に46歳でした。
 672年6月、壬申の乱がおこりました。
 676年、唐は、安東都護府を遼東に遷しました。新羅は、唐より半島の領有を認められ、朝鮮を統一しました。
あわや、史上二度目の占領?
 唐・新羅連合軍と戦って敗れたのですから、仕返しがあります。大帝国唐からの仕返しです。中大兄皇子の恐怖心は十分理解できます。
 しかし、負けることが分かっている戦争をしかけた戦争責任はあります。
 戦争は、始まったら、勝たなければいけません。「戦争は1人でも多く、敵を殺すことにあり」といわれます。理屈が通らない世界です。
 戦争で膨大が犠牲者を出し、戦費を出し、戦後復興の膨大な費用がいります。
 戦争をしないようなチェック機能が必要だということがわかります。
 九州に水城・大野城・基肄城・金田城を設け、防人を派遣しました。瀬戸内海から大和まで、山城を設けました。長門城・屋島城・鬼ノ城・高安城・三尾城などです。百済から亡命してきた技術者の協力で作られたといわれています。
 九州が攻め落とされた場合を想定して、都を瀬戸内海よりかなり奥地の琵琶湖沿岸の大津にもっていきました。ここも万一攻め滅ぼされたら、琵琶湖を使って、関東か北陸に都を移す考えでした。
 日本が占領されたことが1度あります。1945年のことです。
 外国から攻められたことが2度あります。1度は応永の外冦で、もう1度がモンゴルの襲来です。
 白村江の戦いの時は、もっと現実的でした。唐と新羅が対立したため、連合軍が結成されず、日本占領も実現しませんでした。歴史とはそんなものなのかもしれません。

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