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エピソード

022_03

律令国家の形成V(壬申の乱と天武天皇、天皇の神格化)
 額田王は、中大兄皇子にみそめられ寵愛を受けていましたが、思いは、依然天智天皇の弟大海人皇子にありました。
 『万葉集』に額田王が大海人皇子に対して詠んだ歌があります。
 「あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」
 それに対して大海人皇子が答えた歌も『万葉集』にあります。
 「紫の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに 我恋ひめやも」
 645年、中大兄皇子(20歳)が皇太子になりました。
 648年、大友皇子(父は中大兄皇子、母は伊賀の采女である宅子娘)が生まれました。大友皇子の母は伊賀の采女なので、当時は卑母という表現をしています。
 661年7月24日、中大兄皇子(37歳)は、称制を採用しました。
 668年1月3日、中大兄皇子(44歳)が即位して、天智天皇となりました。
 2月27日、大海人皇子(38歳)が皇太子になりました。生年には?が付してあり、誕生に何か異変があったのでしょうか。
 668年、天智天皇が群臣を釣れ、琵琶湖畔で酒宴をしていた時、突然、大海人皇子が長槍を広間の板に投げつけました。中臣鎌足のとりなしで事なきを得ましたが、2人の将来を予感させる出来事でした。
 671年1月5日、天智天皇(47歳)は、太政大臣を新設し、大友皇子(24歳)を任命しました。当時は、同母兄弟間で皇位継承が行われるのが慣例でしたが、それを無視して、天智天皇は、弟よりも血を分けた自分の子供(大友皇子)を後継者とする意思を周囲に表明したのです。
 8月、天智天皇は、病床に着き、先の長くないことを悟りました。
 10月17日、天智天皇は、弟の大海人皇子(41歳)を枕元に呼びました。使いにたった蘇我臣安麻呂は「言葉に気をつけるように」と注意しました。
 天智天皇は、大海人皇子に後事を託しました。大海人皇子は、大友皇子を皇太子として推挙し、天皇のために出家を申し出ました。その足で内裏の仏殿に行って髪をそり、天皇から贈られた僧衣を身にまとい、逆心のないことを見せて、帰宅しました。
 大海人皇子は、手元にある武器を全て天智天皇に差し出す徹底ぶりです。天智天皇の恐怖制裁を想像させます。
 10月19日、大海人皇子は、妻妃と子供だけを連れて吉野に向かいました。これを知った人は、「虎に翼を着けて放てり」言ったといいます。
 12月3日、天智天皇が亡くなりました。
 12月5日、大友皇子が即位して、弘文天皇となりました。
 672年5月、大海人皇子の舎人である朴井連雄君は、大友皇子が天智天皇の墓を造ると称して、美濃と尾張の国司に命じて人夫を徴発しているが、本当は武器を持たせていると報告してきました。
 大伴連馬来田・吹負兄弟などが近江の朝廷を辞して大和に帰っていると知り、大海人皇子は、「黙して身を亡ぼさんや」と決意しました。
 6月、大海人皇子は、村国連男依らに対し、美濃の湯沐領(大海人皇子領)の兵を集め、不破の関を塞ぐよう命じました。
 6月24日、大海人皇子は、妻の讃良皇女(後の持統女帝)や草壁皇子・忍壁皇子、舎人20人、女官10人をつれて、ひそかに、全速力で、夜と通して大和から伊賀へ抜けました。
 6月25日、大海人皇子は、伊賀の北部で、近江の朝廷を辞してやってきた長子高市皇子(19歳)と再会しました。
 大海人皇子が伊勢に入ると、国守の三宅連石床らが鈴鹿へ出迎えました。そこで、大海人皇子は、500の兵で鈴鹿関を押さえました。
 6月26日、大海人皇子が伊勢の北部に入ると、近江から駆けつけた大津皇子と再会しました。まもなく、美濃に派遣していた村国連男依が戻ってきて、「美濃の兵3000人を動員して不破の道を防いだ」ことを報告しました。
 この行動を察知できなかった近江の朝廷側の動揺は大きく、急いで東国・飛鳥古京・筑紫・吉備などの諸国に使者を遣して、兵隊を集めようとしました。東国への使者は、不破の関で捕らえられました。吉備の国守である当麻公広島は、命令に従わず、使者に殺されました。飛鳥古京では、大伴吹負の家来である秦辺熊がフンドシ1つで馬に乗り古京に飛び込んで、「高市皇子がきた、大軍だ」と叫びました。驚いた守備兵は一目散に逃げ散り、そこへ吹負ら10人が攻め込み、古京を攻略しました。
 6月27日、大海人皇子は、美濃の不破の関に着くと、ここに本営を置きました。
 6月29日、高市皇子の第1隊は、近江へ進軍しました。大伴吹負は、大和方面に進軍しました。
 7月2日、大津皇子の第2隊は、大和方面に進軍して大伴吹負らと合流し、南大和の箸陵の戦いで、近江朝廷軍を撃破しました。
 7月22日、高市皇子の第1隊は、近江朝廷軍の最後の防衛ラインである瀬田川に進軍しました。弘文天皇は、瀬田川の西に陣を敷きました。「大いに陣をなして後ろも見えぬ」と『日本書紀』は記述しています。
 朝廷軍の智尊は、瀬田の橋の中間の板を切り落とし、3丈ほどの板を渡して綱を引けば川の中に落ちる仕掛けをしていました。大海人皇子の軍もうかつに近寄れませんでした。
 大津皇子の家来である大分君稚臣が矛を捨て、甲を二重に着て刀を抜いて、必死の形相で迫ってきました。それに圧倒されて智尊の家来が綱を引き忘れました。橋を渡りきった大分君稚臣は、矢を二重の甲で受け止めながら、綱を切り落としました。
 橋を渡った大海人皇子軍と弘文天皇軍の白兵戦となりました。やがて、弘文天皇や左右大臣ら重臣は、大津宮に逃げ帰りました。
 7月23日、弘文天皇は、山前で、自害しました。これを壬申の乱といいます。
 8月25日、大海人皇子は、右大臣中臣連金ら8人を斬罪、左大臣蘇我臣赤兄・御史大夫巨勢臣比等を流罪としましたが、御史大夫紀大人などを赦免しています。
 673年2月27日、大海人皇子は、飛鳥の浄御原宮で、即位して、天武天皇となりました。
 この項は、『日本合戦全集』などを参考にしました。
柿本人麻呂は日本一のゴマすり男、天智・天武は兄弟?
 壬申の乱の原因については、天智天皇が皇位を弟より自分の子供に与えたかったという個人的な理由と、天智天皇の急進的な改革によって特権を奪われた者の不満が考えられます。
 天皇も人の子だったんだということがよく分かります。
 人の子天皇が、皮肉にも、壬申の乱を経て、神格化します。
 近江朝廷には組織が完全に残っており、高級官僚も殆ど大津にいました。彼らは天皇家と深い姻戚関係を持っていました。「おれがおれが」の連中です。大海人皇子に従うものは、中・下級官僚です。大海人側の勝利の結果、高級官僚になった者はどんな気持ちだったでしょうか。「えっ、私が大臣に!!」という感じでしょう。
 彼らの気持ちを代弁するような歌が『万葉集』にあります。
 大君は 神にし坐せば 赤駒の 匍匐ふ田井を 都となしつ 大伴御行
 大君は 神にし坐せば 水鳥の 多集く水沼を 都となしつ 作者不祥
 大君は 神にし坐せば 天雲の 雷の上に いほりせるかも 柿本人麻呂
 柿本人麻呂はとうとう天武天皇を神様にしてしまいました。今なら日本一のゴマすり男という評価を下されたでしょうね。
 それにしても『万葉集』の編集者はすごい。皇族の不倫の歌を堂々と載せる。載せられた皇族も、民衆もそれを許すおおらかさ。「昔はそんな時代だった」ではいけないのだちゅうの。
 私は、その人の年齢を書くことで、リアルな人間像を描くよう努めています。
 大海人皇子の生年を調べると、記入してなかったり、「631年?」と書いてあったりします。実在の天皇でこのような記述は、余り体験がなかったので、常でない(異常)な形で生まれたのだろうと想像しました。
 そこで、天智・天武天皇の系図を丹念に作成しました。その結果、分かったことが、天武天皇の3人の妃が天武天皇の娘だったのです。つまり、叔父と姪の結婚です。過去にも舒明天皇と皇極天皇は叔父と甥の結婚の例です。しかし、3人姉妹が1人の叔父と結婚している例は初見です。見逃しているのかもしれません。
 今、私は、これを異常と思っていますが、この異常な記録を、堂々と残しているのは、当時としては当然だったのでしょう。これをアップするのは、陰か光りか。
 しかし、当時の人は陰とは思っていなかったことは事実です。
伊賀采女宅子娘
  ‖━ 大友皇子
      ‖ ━━━━ ━━━━ ━━━━ ━━━━ 新田部皇女
天 智 天 皇 ━━━━ ━━━━ 大田皇女  ‖━ 舎人親王
  ‖━ 持統天皇   ‖━ 大津皇子
蘇我姪姫   ‖━ 草壁皇子
大   海   人   皇   子 ( 天   武   天   皇 )
  ‖━ 高市皇子
胸形君徳善   ‖━ 刑部親王
■姫娘

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