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エピソード

027_01

遣唐使(航路の変遷、遣唐使群像、井真成?)
 遣唐使の役割は、政治的には文化的にも大きいのは異存のないところです。しかし、当時の船の状況では、航路は非常に危険なものでした。
 計画は18回ですが、実施されたのは15回です。大体15〜20年に1度の割です。最初が630年で、894年大使に任命された菅原道真の建議で廃止になりました。
 最初の航路は九州を出て壱岐島に行き、そこから対馬を通って、朝鮮半島の沿岸を通る「北路」が使われました。北九州からは壱岐島が見えると言います。壱岐島からは対馬が見えると言います。対馬からは天気がいい日には、朝鮮半島が見えると言います。漁師や船頭、乗員にとって、島影がいつも見えることは、安心だったと思います。自然の怖さもコントロールできたと思います。
 ところが、白村江の戦いの結果、新羅との関係が悪化して、比較的安全な「北路」が使えなくなりました。そこで、鹿児島を出て、沖縄の諸島を通る「南島路」と、季節風を利用する「南路」が使用されました。
 島影が見えない心理は、とても重圧状態だったといえます。しかも、自然を利用するための航路は、逆に危険でもありました。
 再び新羅との関係が改善されると、比較的安全な「北路」に戻りました。
 次に、遣唐使年表を作ってみましょう。
 そうそうたるメンバーです。小野篁のように仮病で行かなかった人もいます。
 高田根麻呂・守大石・小野石根らは、難破して亡くなっています。
 高向玄理・阿倍仲麻呂・藤原清河らは、中国で亡くなっています。
出発 帰国 関係者など 天皇 航路
630 632 犬上御田鍬・薬師恵日(帰路:僧旻 舒明 北路?
653 654 大使吉士長行・大使高田根麻呂・留学層道昭 孝徳 北路?
654 655 押使高向玄理・大使河辺麻呂(654年、唐で客死) 孝徳 北路
659 661 大使坂合部石布(漂流) 斉明 北路
665 667 大使守大石・坂合部石積 天智 北路
669 大使河内鯨(帰朝不確実) 天智
702 704 節度使粟田真人・大使高橋笠間・少録山上憶良 文武 南東路
717 718 大使安倍安麻呂、留学生阿倍仲麻呂吉備真備、僧玄ム 元正 南東路?
733 735 大使多治比広成(帰路:吉備真備・僧玄ム) 聖武 南東路?
10 752 754 大使藤原清河・副使吉備真備(鑑真来朝) 孝謙 南東路
11 759 761 高元度 淳仁
12 761 中止 大使仲石伴・副使石上宅嗣 淳仁 中止
13 762 中止 中臣鷹主・高麗広山 淳仁 中止
14 777 778 大使佐伯今毛人・副使小野石根(帰路難破) 光仁 南路
15 779 781 布施清直 光仁
16 804 805 大使藤原葛野麻呂・留学生橘逸勢、留学僧最澄空海 桓武 南路
17 838 839 大使藤原緒嗣・副使小野篁(仮病)・留学僧円仁 仁明 南路
18 894 中止 大使菅原道真・副使紀長谷雄 宇多 中止
以下が原文です。

「贈尚衣奉御井公墓誌文并序
公姓井字眞成國號日本才稱天縱故能
(衡)命遠邦馳騁上國蹈禮樂襲衣冠束帶
■朝難與儔矣豈圖強學不倦聞道未終
■遇移舟隙逢奔駟以開元廿二年正月
■日乃終于官弟春秋卅六    皇上
■傷追崇有典 詔贈尚衣奉御葬令官
■即以其年二月四日□于萬年縣□水
(東)原禮也嗚呼素車曉引丹□行哀嗟遠
■兮頽暮日指窮郊兮悲夜臺其辭曰
(寂)乃天常哀茲遠方形既埋于異土魂庶
歸于故ク」
以下が読み下しです。
「 贈尚衣奉御井公の墓志文。序并せたり
 公は姓は、字は眞成。国は日本と号し、才は天
の縱せるに称う。故に能く命を遠邦に衡み、上国に馳
せ聘えり。礼樂を蹈みて衣冠を襲う。束帶して朝に■
ば、与に儔うこと難し。豈図らんや、学に強めて倦まず、
道を問うこと未だ終わらざるに、■移舟に遇ひ、隙 奔
駟に逢わんとは。開元廿二年正月■日、乃ち官弟に
終わる。春秋卅六。皇上■傷みて、追崇するに典有
り。詔して尚衣奉御を贈り、葬は官を令て■せしめ、
即ち其の年二月四日を以て、万年県の□水の東の原
に□る。礼なり。嗚呼、素車、曉に引きて丹□、哀を行
ふ。遠■を嗟きて暮日に頽れ、窮郊に指きて夜台に
悲む。其の辞に曰く、寂きは乃の天常、哀しきは茲遠
方なること。形は既に異土に埋もれ、魂は故郷に歸ら
んことを庶うと。

 『朝日新聞』には「中国の古都・西安で昨年4月に発見された。約40a四方の石版には、日本から来た留学生の井真成が734年に36歳でなくなったなど171文字が刻まれていた。日本人の墓誌が中国で発見されたのは初めて」とありました(『朝日新聞』2005年8月13日付)。
 開元23年は、西暦では734年です。36歳で亡くなりました。詔は皇帝の命令です。この時の皇帝は玄宗です。玄宗皇帝は、尚衣奉御という官職を贈りました。そこで、尚衣奉御という官職が問題になります。天子の衣服を掌る従五品の官ということです。中級クラスの官僚ということです。
 年齢から考えて、遣唐使一覧を見て、717年の遣唐使が妥当です。同行者一部には、阿倍仲麻呂・吉備真備・僧玄ムらがいます。
 一部には、短期留学生とみて、733年の遣唐使を比定する説もあるようですが、短期留学生が死んで中級クラスの官僚の地位を贈ることは不自然と思います。
 上記が原文と読み下し文です(奈良大学の東野治之教授)。(■ は判読不能の文字。□は第三水準文字。()内は推定文字)
人間の運命を翻弄する政治の力
 政治的に遣唐使が派遣され、政治的に外交関係が悪化したり、改善されたりして、遣唐使の運命がもて遊ばれる状態がよく分かります。
 「決めた指導者が、まず実行する」という状況が来ない限り、いつまでも命令される者はつらいままで終わりそうですね。

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