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エピソード

028_01

奈良時代の農民の生活(百姓は大変だ!!)
 私の田舎は、赤穂市でも千種川の下流の中ほどに位置します。昔は大地主だったと言う母の言葉を信じるだけで、それほど実感はありません。推測できるのは、近隣では見られない分厚い壁の、薄暗い土蔵があるくらいです。それ以外は、大きな前栽(庭のこと)と、地続きの大きな山が二山と、これも地続きの畑が3箇所と、3反ほどの田んぼ位です。
 父は隣町にある造船所(現IHI)に勤めていました。兼業農家です。父は会社が休みのときは、田畑の仕事をするか、趣味の日曜大工をするかで、テレビを見たり、将棋をしたりとか、のんびりした姿を見せたことがありません。遊ぶ事を悪徳と信じる、典型的な昔人間でした。そんな真面目な父親の手伝いをさせられた私は、ある意味で不幸で、別な意味で幸せでした。
 子供心に百姓は大変だと感じています。小学生時代は、田植え時は苗を運ぶ仕事をします。苗は田の水の中で種から蒔かれ育てられていますので、水分をたっぷり吸い込み、とても重いものです。天秤棒の両端の籠に入れていますが、滴り落ちる泥水でズボンはびっしょり濡れます。この不快感は誰にも伝えられません。
 小学生の高学年になると、一人前として扱われます。苗代から田植え用の苗を両手に握れるほどに束ねます。ミミズが手や足にからんできます。田植えは泥田の中に手を突っ込んでします。所々犂かたが足らないところは、土が固いので、指が「サカムケ」をおこします。植える位置に大きな牛の糞が浮いているときもあります。そこへ手を突っ込んで植えます。
 中学生になると、麦を収穫した後を畝を、牛で平らに耕します。これが牛耕です。牛耕が出来ると一人前と認められるのです。「勉強が出来ても、牛耕が出来んようでは、食うていけん」というのが当時の常識でした。今も私は「食えん勉強して、威張れんやろ」と思っています。
 じりじり焼き付ける太陽の下での田の草取りも、中腰で、同じ作業の連続で、苦痛以外の何ものでもありません。
 稲の成長がとまり、稲の背丈よりも高い稗などの雑草が目立つようになると、雑草取りです。半袖の腕には、稲の穂先があたり、作業を終えた腕は、数日間ヒリヒリしています。
 稲刈りも大変です。2〜3本の稲が分けつ(根分れ)して、小学生の手にあまるくらいの太さになっています。10株を1束にして、刈り倒します。後で、結わえます。朝から晩まで、中座で作業をするので、腰が痛くなります。
 5メートルほどの長い竹と2メートルほどの丸木(垂木)を家の納屋から田んぼに運んで、稲を架けるハザ脚を組みます。そこに稲束を運びます。それをハザ脚に懸けていきます。天日に干すのです。
 その後、脱穀機で籾を分離します。当時は足踏みでしたので、朝早くから晩遅くまで、時には電灯をつけて作業をします。籾ガラや土ホコリが鼻や首に入ってとても痛かったものです。
 千歯扱を使っている家を見た記憶があります。
 籾を何回も何回も納屋の貯蔵庫に運びました。
 ムシロで囲った貯蔵庫から天気のよい日は、籾をムシロに広げます。ガンジキで1日数回籾をかき回して、万遍なく太陽にあてる作業をします。ムシロ干しです。1週間、毎日、この繰り返しです。雨が降りそうな気配になると、遊びを途中で止めて家に飛んで帰ります。
 このような苦労にも耐えられたのは、苦労して作ったものが、自分の物になったからです。これを奴隷にように奴隷主に収奪されるとしたら、合理的な方法で、サボタージュしたでしょう。
 本当に何回も何回も根気よくします。つらく、厳しい作業です。空腹時に食べる物は「何でも美味しかった」という記憶があります。飽食時代の今も、私は、その頃を思い出し、空腹にして、食事をするように心がけています。妻が作った料理はいつも最高に美味しいです。これは料理が美味しいのか、空腹だから美味しいのか分かりません。両方なのでしょう。
 炊き立ての御飯は、何も要りません。最高に美味しいです。魚沼産のコシヒカリが美味しいといいますが、あの時の味ではありません。ハザ脚の天日干し、ムシロ干しを省略しているのでしょう。昔風に作った米は、東京の高級料亭に行っているのでしょう。スーパーなどに出回る「魚沼産のコシヒカリ」はハザ脚の天日干し、ムシロ干しを省略した機械造りなのでしょう。
 私は、どんな野菜でも、まず、生のままかじります。美味しい野菜は、水気があって、甘いです。見かけだけの野菜は、水気がなくて、苦いです。そこで、醤油をかけたり、ドレッシングを使います。
 耐えに耐えた子供時代、つらかった日々、しかし、本当の味を舌で覚えることが出来た子供時代の体験を感謝しています。
体験を知恵にすれば、つらいことも活きてくる
 当時の田舎の子供の農繁期は、これが日課なのです。皆がこの作業をしていたので、誰も不満を言う子供はいませんでした。むしろ、「こんなことをした」とか「あんなことをした」とか、自慢しあったものです。成績の悪い子も、運動の鈍い子も、ここでは英雄です。逆に勉強が出来ても作業がのろい子は寂しい思いをしたものです。そしてこの体験が今の生きる知恵になっています。
 こうした大変な時代を経て現在があるのです。「家の手伝いよりも勉強だ、塾だ」と追い回されている今の子供たちを見て、とても不幸で可哀相に思います。体験に基づかない知識をいくら詰め込んでも、砂上の楼閣です。何の力にもならないことを最近証明されてきています。いい傾向です。
 一番の幸せは家族が協働する姿です。家族が、まじめに、額に汗を流して働けば、必ず道は開けます。
 毎年、8月15日頃になると、終戦記念と題して、色々な特集が組まれます。今年(2005年)は、終戦60周年、教科書問題、靖国参拝問題などがあって、いつもより特集が多かったと思います。
 その中で、気になった発言がありました。「今までの教科書は、階級闘争史観に貫かれており、支配者・被支配者という関係で記述されている」という発言です。当時の農村の実態を知るために、山上憶良の『貧窮問答歌』を紹介することが、階級闘争史観なのでしょうか。
 自分の子供時代でも、百姓は大変重労働でした。それを1300年ほど前は、もっと大変だったでしょう。彼らの働きが今を作ってきたのです。それを語ることがなぜ、階級闘争史観なのでしょうか。事実を提示しないレッテル貼りが、日本を敗戦へと導いたのです。

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