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エピソード

029_03

聖武天皇と政界の動揺V(橘奈良麻呂の乱、淡路の廃帝、恵美押勝の乱)
 743(天平15)年、疫病や内乱に悩んだ聖武天皇は国分寺などの総本山として東大寺の建立を発表しました。
 749(天平勝宝元)年、聖武天皇が譲位すると、聖武天皇と光明皇后との間に生まれた阿部内親王が即位しました。これが女帝の孝謙天皇(32歳)です。
 756(天平勝宝8)年5月、聖武天皇(56歳)が亡くなりました。道祖王(祖父は天武天皇、母は新田部親王の子)は、聖武天皇の遺詔で、孝謙天皇の皇太子になりました。
 光明皇后が実権を握りました。そして一族の藤原仲麻呂(南家。51歳)を抜擢しました。
 757(天平宝字元)年3月、孝謙天皇は、道祖王が喪中にも関わらず侍童と密通したとして、皇太子を廃太子にしました。 
 4月、孝謙天皇(25歳)は、新しい皇太子を公募しました。右大臣藤原豊成は、道祖王の兄である塩焼王を推薦しました。左大弁大伴古麻呂は、池田王(舎人親王の子)を推薦しました。
 藤原仲麻呂は、孝謙天皇が選ぶべきと進言しました。孝謙天皇は、不行跡の道祖王の兄である塩焼王は不適当でり、池田王は親不孝であり、大炊王(舎人親王の子)は悪い噂を聞かないので皇太子に立てると提案し、群臣も賛同しました。
 大炊王は、藤原仲麻呂の長男である真従(早世)の未亡人粟田諸姉を妻としており、仲麻呂邸に同居していました。大炊王の立太子は仲麻呂の強い希望であったことがわかります。
 7月、橘諸兄(74歳)が亡くなると、その子奈良麻呂(37歳)は実権を失いました。仲麻呂の台頭に不満を持った奈良麻呂は、大伴古麻呂らと挙兵し、仲麻呂殺害・孝謙天皇廃位、塩焼王・道祖王らの即位を計画したとして、密告され、殺害されました。この計画に連座したとして、古来の名門である大伴氏や佐伯氏らが逮捕されました。
 前皇太子の道祖王も謀反の容疑をかけられ、藤原永手らの拷問を受けて、獄死しました。これを橘奈良麻呂の乱といいます。
 8月、孝謙天皇が譲位し、大炊王が即位して淳仁天皇(25歳)となりました。
 758(天平宝字2)年、藤原仲麻呂の推薦で即位した淳仁天皇は、仲麻呂に恵美押勝という中国風の名前を贈りました。
 760(天平宝字4)年6月、光明皇后が亡くなりました。時に、60歳でした。
 761(天平宝字5)年10月、淳仁天皇・孝謙上皇が保良宮に行幸しました。保良宮に滞在中、孝謙上皇が病気になり、これを呪法により治したのが道鏡(?歳)でした。その後、孝謙上皇は、常に道鏡を側近として重用しました。道鏡は、河内の弓削連氏の出身といいますが、生年が分かりません。
 762(天平宝字6)年5月、淳仁天皇は、道鏡について忠言したので、孝謙上皇の機嫌をひどく損ねました。そして、孝謙上皇は、保良宮より平城京に帰ってきました。
 6月、孝謙上皇は、五位以上の高官を朝堂に集め、淳仁天皇を激しく非難する詔を発し、「帝(淳仁天皇)は常の祀りと小事を行え、国家の大事と賞罰は朕(孝謙上皇)が行う」と宣言しました。その後、孝謙上皇は、剃髪して尼になりました。
 12月、恵美押勝は、3人の息子を参議に任命して、勢力の挽回を図りました。
 763(天平宝字7)年9月、孝謙上皇は、恵美押勝の信任を受けている慈訓の少僧都の地位を剥奪して道鏡に与えました。
 764(天平宝字8)年1月、恵美押勝は、一族や腹心の部下を美濃・越前・伊勢・近江の国司や衛府の長官に任命しました。
 7月、孝謙上皇は、道鏡の弟浄人には弓削宿uの姓を与えました。
 9月、恵美押勝は、「道鏡が先祖の物部弓削守屋大臣の位と名を継ぐことを謀っている」と孝謙上皇に告げ、道鏡を退けるよう進言しました。
 9月、しかし、進言を聞き入れられなかったので、恵美押勝は、強大な兵権を握り、道鏡暗殺計画を立てましたが、事前に発覚し、越前に逃げる途中、近江での戦闘に破れ、琵琶湖で惨殺されました。これを恵美押勝の乱といいます。
 9月20日、孝謙上皇は、恵美押勝に嫌われていた藤原豊成を右大臣に再任し、道鏡を大臣禅師に任命しました。
 10月9日、孝謙上皇は、淳仁天皇の中宮院を包囲し、恵美押勝と関係が深かったことを理由に、廃位を宣告されました。
 10月9日、孝謙上皇は、重祚して称徳天皇(47歳)となりました。
 10月14日、淳仁上皇は、天皇の事実を剥奪され、親王の待遇をもって、淡路に幽閉されました。これを淡路の廃帝といわれます。
 765(天平神護元)年8月、太子候補の一人であった和気王(舎人親王の孫、御原王の子、淳仁廃帝の甥)を謀反の嫌疑で逮捕しました。
 閏10月、称徳天皇は、道鏡を太政大臣禅師に任命しました。
 10月22日、淳仁上皇は、逃亡を計ったが捕えられました。
 10月23日、淳仁上皇が亡くなりました。時に33歳です。淡路には淳仁天皇の供養塔があります。
 1870(明治3)年、淳仁上皇は、弘文天皇・仲恭天皇とともに、正式に淳仁天皇を諡号されました。
橘諸兄 ━━━━━ ━━━━ 奈良麻呂
━━━━ ━━━━━ ━━━━ 光明皇后
武智麻呂 仲麻呂
房前 真盾 内麻呂
宇合 良継 乙牟漏   ‖━ 阿部内親王(孝謙・称徳天皇)
清成 種継
百川 旅子
宮  子
  ‖━ ━━━━━ ━━━━ 聖武天皇
文武天皇 当麻山背
天智天皇 新田部皇女   ‖━ 大炊王(淳仁天皇)
  ‖━ 舎人親王
天武天皇
大きな権力を背に駆け上った権力の座、案外もろいもの
 大きな権力を背に権力を握る。大きな権力が亡くなったり、寵愛を他に移すことで、大きな権力の力が失われると、惨めな結果に終わるというのが歴史の教訓です。
 その事実が分かっていながら、当事者の自分だけは例外だと思い込んでいる。歴史は例外のたび重ねであるが、人間の運命はその一時の例外を認めても、永遠の例外を認めない。
 クーデタが起こるとき、必ず密告があります。権力者は疑心暗鬼になるのでしょう。スパイを縦横に配しています。そうまでして、権力を握りたいのでしょうか。これはゲスの勘ぐりで、権力へのエスカレーターに乗っている人は、徐々に保身術が身につくのでしょう。
 孝謙上皇(43歳)が青年僧の道鏡に会い、病気を呪術で治してもらいました。それ以来、孝謙上皇は道鏡を片時も側から離さず、その寵愛は異常ともいえるものでした。天皇の位を道鏡に与えようと考えるほどでした。女帝が懸念される理由は、ここにあります。
 そこで、その親密さは男女の仲だったとか、色々な憶測が飛び交っています。
 それにしても、権力者が、自分の好き嫌いで、人事をおこない、その人が政治をする。人間がすることですから、今も同じようなことが行われています。それをチェックする人・組織が必要ですね。

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