print home

エピソード

030_02

天平文化U(『日本書紀』)
 『古事記』の物語調に比べて、『日本書紀』は中国の史書にならって、編年体で、漢文で、記述しており、史料的体裁を整えています。
 この本でも色々な昔話のエピソードが一杯出てきます。岩波の古典体系では、漢文の右に読み下し文を併記し、頭注もあるので、古典を多読しておれば、現代文と同じように理解できます。
 印象に残った場面は色々あります。ここでは仁徳天皇を取り上げます。天皇の読み方は、治世中は今上天皇という表現をします。没後、その天皇の治・徳を偲んで、緯(いみな)を贈ります。例えば、仁徳に優れていたので、「オオサザキノミコト」は死後に仁徳天皇と呼ばれるようになったのです。
 何故仁徳天皇になったのかというと、『日本書紀』には次のような記事があります。
 応神天皇の時代です。父応神は長子に山川林野の支配を命じました。末子の莵道稚郎子を次の天皇に任命しました。次子のオオサザキノミコトを天皇の補佐に任命しまし、亡くなりました。
 しかし莵道稚郎子は位を兄に譲って、帝位につきませんでした。オオサザキノミコトも「先帝の命を捨てて、弟王の願に従はむや」とその申し出を固く辞退し、「各相譲りたまふ」。
 譲り合って3年が経過しました。ある時のことです。莵道稚郎子は「”久しく生きて、天下を煩さむや”とのたまひて、乃ち自ら死(をは)りたまひむ(自害をしました)」。ここにオオサザキノミコトが即位することになりました。
 即位した仁徳天皇は次のような善政をしいたことでも有名です。
 「四年の春二月の己未の朔甲子(6日)に、群臣に詔して曰はく、”朕、高台に登りて、遠(はるか)に望むに、烟気(けぶり)、城(くに)の中に起たず。…百姓既に貧しくて、家に炊く者無きか”」
 「三月の己丑の朔己酉(21日)に、詔して曰はく、”今より以後、三年に至るまでに、悉くに課役を除
(や)めて、百姓の苦に息(いこ)へよ”とのたまふ」
 「十年の冬十月に、甫(はじ)めて課役(えつき)を科(おほ)せて、宮室を構造(つく)る。是に、百姓、領(うなが)されずして、老(おいたる)を扶け幼(わかき)を携(たずさ)へて、材を運びコ(盛り土の籠)を負ふ」
 仁徳天皇は高台に登って百姓の家から煙が出ていないのを見て、税金を課しませんでした。その後高台に登って煙が登っているのを見て課税しました。その時、人々は自ら進んで仁徳天皇の宮殿作りに協力したとあります。仁と徳のある天皇として描かれています。
儒教・文字の伝来と『日本書紀』の関係は?
 お互い譲り合ったという話は儒教の影響が出ています。仁徳天皇の仁や徳もまさに儒教の教えそのものです。儒教の伝来が513年ですから、この話はそれ以後に成立したと考えられます。513年といえば継体天皇の時代です。あまり追求すると、ロマンが壊れますか?
 もう一つ。日本人が文字を使うようになったのはいつかという問題です。中国の書で最も早く日本のことを記録しているのは『漢書地理誌』です。前1世紀の日本のことが書かれています。239年、日本から出した最初の手紙が『三国志』魏書東夷伝倭人の条にに納められています。ここでは邪馬台国のことが書かれています。 
 神武天皇は紀元前660年に即位したことになっていますが、日本人が最初に手紙を出した239年から数えて、900年前になります。『日本書紀』にこだわらなくても、日本には世界に誇る立派な文化遺産がたくさんありますよ。

index