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エピソード

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天平文化V(「五風土記」より『播磨風土記』)
 現存する『風土記』は播磨、常陸、出雲、豊後、肥前の5つです。私は播磨に住んでいますので、『播磨風土記』には特に愛着があります。いくつかの話を紹介いたします。
 埴岡と名づける所以は、昔、二人の神が言い争いました。「ハニ(埴=赤土)の荷を担(にな)ひて遠く行くと、屎(クソ)下(ま)らずして遠く行くと、此の二つの事、何(いず)れか能(よ)く為(せ)む」のりたまひき。ところが、「屎(クソ)下らずして行かむ」といった神の方が「我(あ)は行きあへず」と降参して、その場に座って「屎(クソ)下りたまひき」。ハニを持った方も、私も苦しいと言って、屎(クソ)の上にハニ(赤土)を投げ捨てました。そこでこの地を埴岡といいます。 
 「又、屎(クソ)下りたまひし時、小竹(ささ)、其の屎を弾き上げて、衣に行(は)ねき。故(かれ)、波自賀(はじか)の村と号(なづ)く」。今も神埼町福本に初鹿野(はじかの)という地名が残っているそうだ。
 宍粟郡千種村の説明です。「此の澤に菅(すげ)生(お)ふ。笠に作るに最も好し。ヒノキ・杉・栗・黄蓮(かくまぐさ=薬草)・黒g等生(お)ふ。鐡(まがね)を生(いだ)す。狼・熊住めり」。
『播磨風土記』より
 『風土記』には『万葉集』に通じる大らかさが感じられて、とても好きです。
 地名伝説もとてもユーモラスです。でも、今では屎は着物に跳ね返ったからといって、屎跳ね返った村とはつけることはあり得ません。
 郷土の特産物を列記している箇所をみると、宍粟郡千種町は、今でも檜や杉や栗が生い茂り、鉄の産地でもありました。正確な情報が当時の都奈良にまで届いていたことが分かります。その情報収集能力には驚かされます。

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