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エピソード

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国家仏教T(艱難辛苦をして日本にやってきた鑑真、頭が下がります)
 授戒後の修行の年を法臈といい、集会の時には僧尼は法臈の順に並ぶことになっていました。日本には戒師がいなかったので、中国に渡った留学層は困っていました。
 733(天平5)年、栄叡普照の若い僧が、中国から戒師を招くために、遣唐使船で海を渡りました。
 唐の都長安で、戒師を紹介できる人を尋ねると、揚州の大明寺に鑑真の名を上げる人がたくさんいました。栄叡と普照は鑑真に「日本に来て戒律を授けることができるお弟子を紹介してください」と懇願しました。鑑真は弟子たちに「日本に渡り、戒律の伝授をする者はいないか」と尋ねましたが、誰一人応える者はいませんでした。しばらくして、弟子の1人が「私たちは鑑真和上のもとで学ぶべき事がたくさん残っています。だから黙っているのです」と、皆の考えを代弁しました。
 鑑真は「仏法興隆のために、どうして身命を惜しんでいられよう。皆が行かないなら、私が参ります」と自ら渡海の決意を表明しました。すると、20人余りが同行を名乗り出ました。しかも、戒律伝授の第1人者である鑑真の密航に反対する者も出てきました。しかし鑑真の意志は変わりませんでした。
 初回の渡航の時、弟子の道抗と如海が対立し、如海が「道抗が海賊と通じて密輸を計画している」と密告しました。その結果、道抗だけでなく、栄叡と普照もつかまり、船も没収されました。初回の計画は失敗に終わりました。
 その後も、鑑真を日本に行かせたくない弟子の密告や、船の難破で、渡航計画は失敗に終わりました。
 748(天平20)年、5度目の時は、東シナ海に出たところで暴風雨にあい、台湾よりもっと南の海南島にまで流されました。陸路を揚州まで帰る途中、栄叡は亡くなり、鑑真は失明しました。
 753(天平勝宝5)年、唐についた遣唐使(大使は藤原清河、副使は大伴古麻呂)は、玄宗皇帝に鑑真和上の日本への招聘を交渉しましたが、これも失敗しました。副使の大伴は自らの船に鑑真一行をかくまって出航し、12月に鹿児島の坊津町秋目浦に着きました。約40日の航海でした。鑑真はこの時、67歳の高齢でした。
 754(天平勝宝6)年4月、日本で初めての授戒会が東大寺大仏殿の前に設けられた戒壇で行われました。聖武上皇光明皇太后孝謙天皇はすすんで菩薩買戒をうけ、さらに500人の僧侶が受戒しました。
 ついで戒壇院が建立され,その後下野の薬師寺太宰府の観世音寺にも戒壇が設けられ,天下の三戒壇と称せられ,僧尼となる者は必ず登壇受戒することが定められました。
 759(天平宝字2)年、新田部親王の旧宅を与えられ、戒律を伝授する道場としての寺を興しました。これが唐招提寺です。唐から招いた人のためのお寺という意味です。
 763(天平宝字7)年5月、鑑真が亡くなりました。76歳でした。弟子の忍基はすぐさま鑑真の姿を彫刻しました。これが鑑真大和上像(国宝)として今に残っています。
鑑真と松尾芭蕉の接点
 「若葉して 御目の雫 ぬぐはばや」
 これは松尾芭蕉が45歳の時、初夏の青葉あふれる奈良の唐招提寺の境内にある鑑真の座像を拝した時に詠んだ句と言われています。
 学生時代、「人生を旅にして終える」と考えていた私にとって松尾芭蕉は理想の人でした。その芭蕉が詠んだ句です。この句に接してすぐに唐招提寺に行きました。目を閉じた鑑真像を見て、その荘厳さに絶句し、その場に長く佇んだものです。

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