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エピソード

032_01

天平美術T(釈迦如来・薬師如来像・毘盧舎那仏の覚え方)
 仏教では偶像を崇拝する習慣はありませんでした。インドでは現在でも「善を積んだ使者の霊魂は火葬の煙にのって天国に行く」と信じられています。そのため、「この世に未練のある痕跡を全て消し、墓もつくらず、骨は川に流す」のです。
 釈迦如来の舎利(仏の遺骨)を祀るストゥーパ(仏塔)の浮彫りには、輪宝、仏足石(仏の足跡)を象徴的に描いていました。
 紀元後1世紀頃、パキスタンのガンダーラとインドのマトゥラーで、礼拝の対象としての仏(如来)がつくられるようになりました。ギリシア彫刻がヒントになっています。
 歴史上に実在して仏陀となった釈迦如来の他、大乗仏教の成立によって仏教の教義が多様に展開して、多くの如来が考え出されました。如来とは(真実)から生した者、つまり悟りを開いた者という意味です。仏陀とも仏ともいいます。Buddhaの音訳です。
 衆生の病苦などを救うものとしての薬師如来、修行中に四十八願を発し、五劫という長い間思惟を重ねて如来となった阿弥陀如来が誕生しました。阿弥陀如来は浄土教の所で扱います。
 仏教では実際にこの世に出現して教えを広めた仏のことを応身仏といい、釈迦如来がそれにあたります。仏教の教え(法)そのものを人格化した仏が考えられるようになり、法が身体になったということで法身仏といい、毘盧舎那仏がそれにあたります。
 さらに密教では毘盧舎那仏を発展させ、哲学的世界観の中心にすえて大日如来としました。大日如来は密教の所で扱います。
 如来像は悟りを開いた者ですから、修行の身である菩薩が身に着けている装身具は一切着けていません。釈迦如来像を見分けるには、左手が与願印(いをえる手の形)、右手は施無畏印(いということをす手の形)が目印になります。釈迦如来の向かって右に獅子に乗った文殊菩薩、向かって左に白象に乗った普賢菩薩が脇侍として安置されています。
 菩薩は修行を終えることで次期の如来(未来の仏)を予定されています、弥勒菩薩は釈迦の死後56億7000万年後に出現する仏です。地蔵さんだけは出家の姿をしているので、菩薩というより如来に近い存在だと言えます。それは弥勒如来の出現まで、仏に代わって人々の苦しみや悩みを救済する役目を持っているからです。
 梵天と帝釈天、八部衆が仏教の守護神として釈迦如来に仕えます。帝釈天の部下が四天王で、持国天・増長天・広目天・多聞天(「地蔵買うた」と覚える)と言います。
 釈迦如来には8万4000人の弟子がいました。特に優れた10人を大迦葉など十大弟子といいます。
 阿羅漢は修行の極位に達した者のことです。釈迦如来が涅槃の時、正しい仏法を護持する役目の者として16人の阿羅漢を指名しました。彼らのことを十六羅漢といいます。
 薬師如来は修行時代に「人々の病や体の障害を除く」ことを請願しました。そこで薬師(で病を治す医)と呼ばれます。見分け方は、左手に薬壷を持っています。無くなっていることが多いです。その場合、手の形は釈迦如来像と同じなので、見分けがつかないことになります。
 その時は、脇侍の向かって右が金色の円形の日輪をもっている日光菩薩、向かって左が銀色の三日月形の月輪をもっている月光菩薩が目印になります。
 その三尊像の周囲に十二神将像も目印になります。薬師如来の十二の本願の基づいています。バサラ(伐折羅)・メキラ(迷企羅)などで、十二支とも結びついて、薬師如来ためにその方位や時刻を昼夜絶やさず守護しています。
 この地球上に現れた釈迦如来は仏の仮の姿と言われるようになりました。そして、法身仏=宇宙仏である毘盧舎那如来は永遠不滅の宇宙の真理を現すと言われるようになりました。毘盧舎那如来が本仏で、釈迦如来はその化身(分身=人間仏)と言われます。毘盧舎那如来がいなければ真の教え(法)がないことになり、釈迦如来がいなければ真の教え(法)を実際に伝える人がいないということです。毘盧舎那如来の台座には千枚の花びらがあり、その一枚一枚に大釈迦が一人ずついて、それぞれ教えを説いています。さらに大釈迦がいる千枚の花びらの一枚一枚に、百億の仏の世界があって、そこにはまた小釈迦が一人ずついるといいます。一花に百億国、一国に一釈迦を現すという気の遠くなりそうな広大な世界観が説かれ、その頂点に立つのが毘盧舎那如来なのです。手の形は釈迦如来と同じです。
 その世界観を象徴するために、台座の周りの蓮の葉に釈迦の姿が彫られたり、光背に小さな仏が膨大に配置されています。
ペーパー上の知識が体験に裏打ちされて、生きた知恵となる
 仏像を覚えるには、仏像の造られた教義・背景を知る必要があります。お釈迦さんは現実に生存し、苦行し、悟りを開いた人です。その後、時代が下るにつれ様々な解釈が行われ、それに合わせて様々な仏像が造られるようになりました。本で確認できます。最近は、インターネット上のホームページにも知りたい情報が本より確実に得ることが出来ます。
 幸い私には子供の頃から、様々な体験をしてきました。仏さんの手の形、手の上の薬壷、奈良の大仏さんを見てきました。ここで紹介した如来を全て見ていたのです。
 近所には「瓜生の羅漢さん」もあります。派手な若者を「バサラ大将」という言葉も知っていました。お地蔵さんは学校への登下校に頭を下げたものです。こうした体験とペーパー上の知識を照らし合わせれば、簡単に教義と背景とが私の体の中に蓄積されていきました。幼稚園にも行かず、塾にも行かず、様々な体験を許してくれた両親に改めて感謝しております。今なら放任主義と非難されるでしょうか?。
 今回は背景・教義を扱う関係で以下の書物を参考にしました。先人の労苦に感謝します。
ひろさちや原作『仏像のはなし』(すずき出版)
田中義恭・星山晋也編著『目で見る仏像-如来-』(東京美術)
瓜生 中著『仏像がよくわかる本』(PHP文庫)
西村公朝著『仏像の声』(新潮文庫)

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