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エピソード

033_01

桓武天皇の政治T(長岡京、平安京)
 天智天皇系の桓武天皇の政治を調べてみました。
 桓武天皇の時、平安、今の京都に遷都しました。これを平安時代の始まりといいます。
 桓武天皇は、貴族として出発します。しかも無位からの出発です。一体何があったのでしょうか。
 757(天平宝字元)年、塩焼王(祖父は天武天皇。父は新田部親王)は、臣籍降下して氷上真人を名乗りました。
 764(天平宝字8)年、山部王(父は光仁天皇。後の桓武天皇)は、恵美押勝の乱後、無位より従五位下に進みました。
 恵美押勝の乱によって氷上塩焼王が処刑されました。氷上川継(父は氷上塩焼王、母は不破内親王)は、母が聖武天皇の皇女であるという理由で、免罪されました。
 769(神護景雲3)年5月、不破内親王(父は聖武天皇、母は県犬養広刀自、氷上塩焼王の妻)とその子志計志麻呂は巫蠱の罪に坐し、配流に処せられる。
 770(神護景雲4)年8月、称徳天皇が亡くなると、北家の藤原永手式家の藤原百川らは、称徳天皇の遺勅として、「井上内親王(異母妹)の夫である白壁王を天皇にする」と宣言しました。
 10月、白壁王が即位して、光仁天皇となりました。皇后の井上内親王の生んだ他戸王が皇太子になりました(他戸親王)。第1皇子の山部王は、従四位下・大学頭・侍従となりました。
 11月、山部王に対し、親王宣下がくだされ、山部親王は皇族で最下位の四品となりました。
 772(宝亀3)年3月、皇后の井上内親王が光仁天皇を巫蠱していると密告されました。巫蠱とは、坐(みこ)を使い、人をのろうまじないをすることです。
 5月、母の巫蠱事件に連座していたとして、他戸親王が皇太子を廃されました。
 12月、不破内親王は、罪を許され、内親王の属籍に復帰しました。
 773(宝亀4)年1月、他戸親王の異母兄である山部親王(37歳)が皇太子になりました。
 781(天応元)年4月3日、光仁天皇が病のために譲位し、山部親王(45歳)が即位して、桓武天皇となりました。
 4月4日、同母弟の早良親王(32歳)が皇太子になりました。
 6月27日、北家の藤原魚名(父は藤原房前)を左大臣としました。
 12月23日、光仁上皇が亡くなりました。時に73歳でした。
 782(天応2)年閏1月、氷上川継(父は氷上塩焼王)の資人である大和乙人が宮中で捉えられ、氷上川継らの謀叛を白状しました。その結果、氷上川継は、義父で京家の藤原浜成(父は藤原麻呂)と母の不破内親王らが謀叛を企てたとし、妻の藤原法壱とともに、伊豆へ流罪となりました。
 閏1月、氷上川継の母である不破内親王と川継の姉妹が淡路に流罪となりました。
 連座していたとして、藤原浜成は参議・侍従を解任され、左大弁の大伴家持・右衛士督の坂上苅田麻呂らが京外追放されました。これを氷上川継の乱といいます。
 3月、藤原浜成の娘を妻に持つ三方王も、連座の罪で、妻の弓削女王(父は三原王、祖父は舎人親王)と共に日向国に流罪となりました。この結果、天武系の血統が絶えました。
 6月14日、左大臣で北家の藤原魚名は、氷上川継の乱に加担したとして、大宰帥に左遷されましたが、その後、藤原式家が繁栄しています。そこで、氷上川継の乱は式家の陰謀という説があります。
 6月17日、大伴家持は追放処分を解かれ、陸奥按察使鎮守将軍に任命されました。
 783(延暦2)年4月、桓武天皇は、藤原乙牟漏を皇后としました。
 784(延暦3)年5月、桓武天皇は、式家の藤原種継(父は清成、叔父は百川)を山背国長岡村に派遣しました。
 6月、桓武天皇は、藤原種継を造長岡宮使長官に任命して、長岡宮造営に着手しました。
 11月、桓武天皇は、遷都の勅令を発布して平城京を廃し、未完成の長岡京へ遷都した。血生臭い平城京から抜け出したい気持ちでしょうか。
 長岡京遷都の理由として、「長岡京の南の交野は、百済王氏の本拠地であり、高野新笠(桓武天皇の母)が百済王系であるから」という説もあります。
 785(延暦4)年8月、桓武天皇は、百官を率いて平城京に出かけました。
 9月23日、長岡京の留守を預かるのは、皇太弟の早良親王・右大臣で南家の藤原是公・造長岡宮使長官の藤原種継らでした。遅れている工事を把握しようと、藤原種継(49歳)は、夜に巡回していました。矢が飛んできた種継の眉間を貫きました。即死です。これを藤原種継暗殺事件といいます。
 9月24日、桓武天皇は、平城京から長岡京に引き返しました。逮捕された者の話で、矢を射たのは近衛と中衛の2人で、指揮したのは右衛門大尉の大伴竹良と左少弁の大伴継人であることが判明しました。
 さらに尋問すると、春宮大夫で大伴家持が計画し、皇太弟の早良親王が承認し、大伴・佐伯・多治比一族が加担していたことが分かりました。
 そこで、桓武天皇は、会議を開いて、処分を決定しました。皇太弟の早良親王は廃太子として、乙訓寺に幽閉する。春宮坊の役人は流罪とする。大伴家持の官位を奪い、その子供らを隠岐に流罪とする。大伴竹良・大伴継人・大伴湊麻呂・大伴真麻呂・佐伯高成・多治比浜人らは、主犯として斬刑とする。
 10月、早良親王は、船で淡路に移送中も、河内の山崎橋で絶命しました。時に36歳ででした。幽閉以来、無実を訴え続けて、10日以上も食事を取らなかったといいます。原因は餓死といわれています。遺体は淡路に送られて葬られました。早良親王の無念さが伝わってきます。
 11月10日、桓武天皇は、気の迷いを避けるため、中国の風習に従い、天神を長岡京の南の交野の柏原に祀りました。
 11月25日、桓武天皇は、長男の安殿親王を皇太子にしました。
 786(延暦5)年1月、式家の藤原百川の娘の旅子を夫人としました。
 790(延暦9)年9月、この頃、豆瘡が流行し、安殿親王が病気になりました
 792(延暦11)年6月、陰陽寮で卜占した結果、安殿親王の病気は、早良親王の怨霊のタタリが原因を判明しました。そこで、早良親王の魂鎮めを行いました。
 792(延暦11)年、諸国の軍団を廃止し、健児の制を定めました。
 793(延暦12)年、和気清麻呂は、桓武天皇に、山背への遷都を建策しました。そこで、藤原小黒麻呂らを山背国葛野郡宇太村に派遣しました。膨大なお金と人員を動員して完成間近い長岡京を放棄した理由は、早良親王の怨霊から逃れるためと考えられます。
 3月、造営を開始しました。この土地は和気清麻呂の土地でした。今風に言うと土地ころがしという事でしょうか。
 794(延暦13)年10月、桓武天皇は、今度は無事に、平安京に遷都出来ました。
 11月、山背国を山城国と改称しました。
 794年より源頼朝が征夷大将軍に任命される1192年までを、一般的に平安時代と呼んでいます。
 語呂合わせで、794年を「鶯 鳴くよ 平安京」、1192年を「源頼朝 いい国 つくるよ」と覚えさせられたものです。
 797(延暦16)年5月、平安京でも怪異があり、早良親王の魂鎮めが行われました。
 800(延暦19)年7月、桓武天皇は、怨霊鎮魂のために、早良親王を崇道天皇、井上内親王を皇后とし、墓を山陵としました。
 801(延暦20)年、征夷将軍の坂上田村麻呂は、蝦夷を討伏して、閉伊地方まで進出しました。
 802(延暦21)年、征夷将軍の坂上田村麻呂は、胆沢城を築いて多賀城から鎮守府を移しました。
 803(延暦22)年、征夷将軍の坂上田村麻呂は、志波城を築きました。
 804(延暦23)年1月、桓武天皇は、征夷将軍の坂上田村麻呂を征夷大将軍としました。
 7月、桓武天皇は、遣唐使(大使は藤原葛野麻呂)の一行に、留学僧の空海最澄らを参加させました。
 805(延暦24)年7月、最澄が唐より帰国し、桓武天皇の病気平癒の祈祷を行いました。
 12月、参議藤原緒嗣は、陸奥進軍と平安京造営の中止を提言し、桓武天皇は、これを受け入れました。
 806(延暦25)年3月、桓武天皇は、藤原種継暗殺事件の連座者を本の位に復帰させました。大伴家持は、名誉を回復し、従三位・春宮大夫に復帰しました。ま
 3月17日、桓武天皇が亡くなりました。時に70歳でした。
 5月、安殿親王が即位して、平城天皇となりました。
栄えたり衰えたりは歴史の習い
 天武天皇系の朝廷で栄えた者も、天智天皇系の朝廷では衰えます。でも、権力闘争に巻き込まれながら、勢力を維持する者もいます。
 情報の収集能力と、その分析能力が、いつの世も、最後には、決め手のようです。
 平成天皇は「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じます」と発言しました(平成13年12月23日)。
 日韓共同開催のサッカーのワールドカップを前に、「歴史的、地理的にも近い国である韓国に対し、陛下が持っておられる関心、思いなどをお聞かせください」という質問に対して、この発言がありました。
 原文は、以下の通りです。
 「日本と韓国との人々の間には、古くから深い交流があったことは、日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や、招へいされた人々によって、様々な文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師の中には、当時の移住者の子孫で、代々楽師を務め、今も折々に雅楽を演奏している人があります。こうした文化や技術が、日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは、幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に、大きく寄与したことと思っています。私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、この時以来、日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております。
 しかし、残念なことに、韓国との交流は、このような交流ばかりではありませんでした。このことを、私どもは忘れてはならないと思います。
 ワールドカップを控え、両国民の交流が盛んになってきていますが、それが良い方向に向かうためには、両国の人々が、それぞれの国が歩んできた道を、個々の出来事において正確に知ることに努め、個人個人として、互いの立場を理解していくことが大切と考えます。ワールドカップが両国民の協力により滞りなく行われ、このことを通して、両国民の間に理解と信頼感が深まることを願っております」
 この天皇の発言に対する韓国のマス=コミの反応をお伝えします。インターネットを利用すると、世界の情報が寸時に入手できます。
(1)朝鮮日報
 日王家に百済王室の血が混じっているという明仁日王の発言を、『朝日新聞』を除いた大部分の全国紙とテレビは一言も報道しなかった。日王自らが王室の「ルーツ」に触れたというニュース・バリューを考えると、異例なほどの沈黙だ。
ある日刊紙の王室担当記者は、報道をしない理由について「(日王の)個人的なお考えなため」と説明したが、当惑している様子だった。ある王室専門の評論家は「皇室の血統問題が公然と出現したことを避けるマスコミと保守的な指導層にとっては困惑しているだろう」と指摘する。
 今回の発言が日本政府と事前の調整がなされた痕跡はなく、日王自らの判断によるものである可能性が高い。記者会見での質問は、慣例によって事前に提出する。しかし、宮内庁の実務者が準備した回答資料に「百済」や「武寧王」などの言葉はなかったと、いくつかの消息筋は伝えている。
 ある外交消息筋は「単一民族と万世一系の神話に浸っている日本国民には衝撃的だろう。韓日両国国民の情緒にどのような影響を与えるか注目される」と指摘する。もちろん、「家父長的天皇制」を支持する国粋主義グループは、今回の発言には不満が大きいだろう。
(2)中央日報
 日本天皇が古代韓日間の交流事実と韓国とのゆかりを強調し、「2002年韓日ワールドカップ共同開催を機に、両国民の理解と信頼感が深まることを願う」と述べた。
 明仁天皇は68歳の誕生日を迎えた23日、特別記者会見を開き、韓日両国の人的・文化的交流問題に言及しながら「韓国とのゆかりを感じている」と話した。日本の天皇が韓国との歴史的交流事実を取り上げながら両国の関係に対して具体的な立場を表明するのは異例だ。
(3)東和日報
 日本の大阪市内の百済駅。貨物を専門に扱うこの駅の漢字名は百済駅だ。辺りには百済高校まである。日本列島に現在まで残る百済の痕跡だ。日本王室の宝を収蔵している奈良市にある東大寺の正倉院。朝鮮半島から渡来した先進文物が相当数保存されているこの場所は、まず建物の姿形からして高句麗民家に良く見られる桴京(プギョン)とまったく同じだ。
 明仁日王は8世紀後半桓武日王(在位781〜806年)の母が百済系という程度のみを認めたが、これらの主眼は400年以上さかのぼる。
 15代応神日王が百済系という主張がそれだ。
 1982年に『沸流百済説』を提起した金聖昊韓国農村経済研究院顧問は、広開土大王碑から出てきたように396年、沸流百済最後の応神が日本に渡り15代日王となったという。
 金顧問は沸流百済は本来中国にいた呉族が朝鮮半島に渡り発展した倭族が作った国であり、したがって応神日王は朝鮮半島南部に居住した倭族だったと主張する。
系図の説明(天皇、藤原氏、今回登場した藤原氏、事件の被害者)
━━━━ ━━━━━ ━━━━ 光明皇后
房前 永手 内麻呂
魚名
宇合 百川    ‖━━ 孝謙・称徳天皇
清成 種継
麻呂 浜成
天武天皇 文武天皇 ━━━━ 聖武天皇 ━━━━━━━━ 不破内親王
 ‖━━ 井 上 内 親 王  ‖
県犬養広刀自  ‖  ‖
舎人親王 三原王━ 弓削女王  ‖  ‖
 ‖  ‖
三 方 王  ‖  ‖
新田部親王 ━━━━ ━━━━━━ ━━━━━━━ 焼 塩 王
天智天皇 ━━━━━ 施基皇子 ━━━━━━ 白壁王(光仁天皇)
 ‖━━ 桓武天皇
    ‖  ‖━━ 安殿親王
    ‖ 藤原乙牟漏
    ‖ 早良親王
高 野 新 笠

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