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エピソード

033_02

桓武天皇の政治U(坂上田村麻呂と蝦夷)
 蝦夷とは、字源的には大きい人の側に寄り添った小柄で背の低い人をさしています。 
 中国人は自分の民族文化の中心を中華(中夏)と呼んでいました。そして、その文化の恩恵を受けない民族を東夷、西戎、北狄、南蛮と呼んでいました。
 殷代には、殷に敵対した小柄な人種を夷と呼びました。
 後には、未開人の総称にも使われました。
 日本では、古くは未開人という意味でアイヌ民族をさすと考えられていましたが、現在は時の権力者に敵対する人々を夷とか蝦夷と呼んだと言われています。
 古代の東北経営をおさらいしました。
 647(大化3)年、渟足柵新潟県)を設置しました。
 648(大化4)年、磐船柵(新潟県)を設置しました。
 658(斉明4)年、阿倍比羅夫が蝦夷を征討しました。
 708(和銅元)年、出羽柵山形県)を設置しました。
 712(和銅5)年、出羽国(山形県)を設置しました。
 724(神亀元)年、多賀城宮城県)を設置し、陸奥国府と鎮守府を置きました。
 733(天平5)年、出羽柵を移し、秋田城としました。
 758(天平宝字2)年、雄勝柵秋田県)を設置しました。
 767(神護景雲元)年、伊治城(宮城県)を設置しました。
 780(宝亀11)年、蝦夷の伊治砦麻呂が鎮守府の多賀城を攻略しました。
 788(延暦7)年、第1回蝦夷征討で、政府軍が敗北しました。
 791(延暦10)年、第2回蝦夷征討で、征夷将軍大伴弟麻呂を派遣しました。
 797(延暦16)年、桓武天皇は、第3回蝦夷征討で、征夷将軍坂上田村麻呂を派遣しました。
 801(延暦20)年、征夷将軍の坂上田村麻呂は、蝦夷を討伏して、閉伊地方まで進出しました。
 802(延暦21)年、征夷将軍の坂上田村麻呂は、胆沢城岩手県)を築いて多賀城から鎮守府を移しました。
 803(延暦22)年、征夷将軍の坂上田村麻呂は、志波城(岩手県)を築きました。
 804(延暦23)年、桓武天皇は、征夷将軍の坂上田村麻呂を征夷大将軍としました。
 811(弘仁2)年、征夷大将軍文室綿麻呂は、蝦夷を平定し、太平洋側の征討を完了しました。
文字・言葉は相対的、敵・味方で表現が異なる
 入社試験を受けようと、先輩に、ある会社の感想を求めたとしましょう。先輩はその会社を悪く言う。本当に客観的に悪いのというと、なんらかの関係で、その会社とトラブルを起こしていることが多い。
 同じように、AさんがBさんのことを「あの人嫌やわ」と相槌を求めてくる。変に同調したり、曖昧な返事をすると、いつの間にか自分もAさんの仲間にされていて、Bさんから憎まれることがあります。
 文字や言葉は敵・味方で使い方が異なるので、注意が必要です。時の権力者にたてつくと、相手は宣伝力を持っていますから、いつの間にか野蛮で、殺されても仕方ない人物にされていることがあります。
 坂上田村麻呂は京都東山で狩をしていた時のことです。白い鹿を発見し、射殺そうとしましたが、鹿が「助命」を嘆願したので、助けたそうです。その鹿は田村麻呂が出世することを予告して、姿を消しました。家に帰ってみると、鹿の予言通り、征夷大将軍に迎えられました。田村麻呂は鹿は神の化身に違いないと思い、蝦夷征討から帰ると、鹿を発見した場所をお寺を建てました。これが有名な清水寺のルーツです。

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