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エピソード

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密教の流行T(最澄の生涯とその教え)
 最澄の生涯は、道鏡に見られるように僧侶が政治に深く関与していた時代、それを除去しようと遷都したが、それに従事する労役民が苦しんだ時代、桓武・嵯峨天皇が山林修行(清浄な修行)を期待した時代でもありました。
 最澄は、空海に比べてエピソードが少なく、授業でも苦労しました。強いてあげると、最澄の母が比叡山にのぼり、子宝を授かるように7日間の祈願をしたところ、5日目で、夫婦が同じ夢を見て、最澄が誕生しました(幼名は広野)。767年のことです。769年に宇佐八幡宮神託事件が起きています。
 4〜5歳のころ、1人で字を覚えました。7歳の時出家を願い出て、12歳で近江の国分寺で出家しました。いつ寝ているか分からないほど勉強しました。国分寺の行表和尚から「もう教えることがない」と言われ、奈良に東大寺に行きました。14歳の時得度をうけ、最澄となりました。19歳の時(785年)最澄は東大寺戒壇院で小乗250戒を受け、僧侶としてのエリートコースを歩むことになりました。
 この7月最澄は出世コースを捨て、比叡山に籠る決心をしました。ここに桓武天皇の山林修行の考えと最澄の行動が一致した事になります。9月には長岡京造営長官の藤原種継が暗殺されています。 
 最澄は自分の事を「愚中の愚、狂中の極狂、塵禿の有情、底下の最澄」と評し、徹底した内なる人間性を追及しています。
 また「解脱の味ひとり飲まず、安楽の果ひとり証せず、法界に衆生と同じく妙覚に登り、法界の衆生と同じく妙味を服せん」という衆生救済の大乗的悲願に目覚めます。
 ものすごい勢いで経典類を読破して、天台の教学に関心を持つようになりました。中国の天台宗は隋の時代に智が大成し、鑑真が経典を日本に招来していました。その特色は、全ての人に仏性があり、誰でも成仏できるというものです。
 804(延暦23)年7月、桓武天皇の許可で、最澄は還学生(短期留学生)として中国に渡りました。空海は私費留学生ということになります。最澄が天台山に行くと、智が200年前蔵の鍵を空に投げて以来開かずの蔵が開きました。最澄が比叡山で修行中に不思議の鍵を拾っていたと言うのです。
 805(延暦24)年5月、ここで最澄は法華経中心の天台仏教の奥義と大乗仏教菩薩戒を受け、帰国ました。空海の帰国は806年となります。
 806(大同元)年、桓武天皇は天台宗を学ぶ者から2人に得度を許可しました。ここに日本にも天台宗が開立したことになります。この年、最澄の理解者だった桓武天皇が亡くなりました。
 809(大同4)年、平城天皇のあと嵯峨天皇が即位しました。
 813(弘仁4)年、最澄は空海の弟子になって、『理趣釈経』の借用を申し込みました。しかし、「ほんとうに密教の真理をしろうとするなら、真の密教僧となり行を修める覚悟で来なさい」と断られ、これ以降2人の英雄の出会はありません。最澄は天台と真言の調和を考えていたのですが、空海は天台や華厳の上に真言を位置づけていたのでした。
 815(弘仁6)年、最澄は関東一帯で勢力を持つ法相宗の徳一と「三一権実」の論争をしています。法華経は
「大乗仏教による修行も、小乗仏教による修行も、どちらも仏が衆生の理解に合わせて説いたものであり、最終的な真理は一つであり、どの修行も唯一の真理に帰着する」と説いています。
 最澄はこの一乗説を採り、「真実の教えは唯一で、それによって、いかなる人も全て等しく仏となれる」「三乗は真実の一乗に導くための方便に過ぎない()」と主張しました。
 法相宗の徳一の立場は、「衆生には能力の違いがあり、誰でもが悟りを開けるというのは方便で、三乗こそが真実の教えである()」と主張しました。 
 818(弘仁9)年、最澄は小乗の250戒を破棄しました。その理由は煩わしく実行不可能で、国家鎮護・衆生救済の大任を果たせないというものです。
 そして最澄は次の提案をしました。(1)天台宗の年分度者は比叡山において出家得度する。(1)それは梵網経にもとづく大乗戒のみで行う(それまでは小乗と大乗の戒を受けていました)。(2)得度を受けた僧侶は12年間山中で修行する。
 これには大きな意味がありました。(1)易行である。(2)衆生救済が目的である。(3)比叡山に授戒のための大乗戒壇を設け、国家や南都の戒壇より独立する。
 南都六宗側は大反発しました。梵網経の大乗戒は一段低い在家者(俗人)のための菩薩戒であり、それを小乗250戒と同列視しようとしていると嵯峨天皇に直訴しました。
 821(弘仁21)年、最澄は空海の下で修行させていた最愛の弟子泰範が師最澄を裏切り、空海の弟子になって最澄の元に帰らないということを宣言しました。最澄にとってつらい日々が続きました。
 822(弘仁23)年6月4日、最澄は56歳で生涯を閉じました。その7日後の11日、藤原冬嗣らの計らいで、嵯峨天皇も比叡山でも大乗戒壇を設けることを許可しました。ここに天台宗が名実ともに成立した事になります。
母から聞いた仏性の話、ミスもする最澄さん
 昔、強盗が役人に追われて逃げてきました。通りすがりのお坊さんは、ただその犯人を「合掌」し続けて逃がしてしまいました。
 その夜、犯人は通りすがりの者は「石を投げる」か「ものすごい形相でにらむ」かだのに、そのお坊さんは私に「手を合わせた」。その意味が分からず、お坊さんを尋ね探しました。
 お坊さんは「あなたに手を合わせたのではない。あなたに宿っている仏さまに手を合わせたのです」と答えました。犯人は「私は物を盗んだというのに、仏が宿っているのか」と聞きますと、お坊さんは「人間として生まれたからには全ての人に仏が宿っているのです。それに気がつかないだけです」と答えました。犯人は罪を償い、激しく修行して立派なお坊さんになったそうな。
 これは、1916年生まれ生まれの母から、子供の頃聞いた話です。
 私は今も、この話はだれのことを言っているのか、どの教えなのか分かりません。しかし、最澄の生涯とその教えをまとめると、この話は最澄の教えではなかったかと感じるようになりました。如何でしょうか。
 最澄を調べると、激しい戦いと努力の生涯でありました。と、同時に空海に弟子入りまでしたのに、本の借用を断られたり、最愛の弟子をライバル空海にとられたりと、人間味臭い最澄の姿もありました。
 ある天台宗のお坊さんが「だから最澄の下から鎌倉仏教を創立した英雄が誕生した」と聞いたことがあります。ちょっとミスするスーパースターに人材が集まるということらしい。なるほど長嶋茂雄さんにもあてはまる説ですね。
 ここでは以下の本を参考にしました。お世話になりました。
 西郊良光・神谷亮秀著『天台宗』(大法輪閣)
 ひろさちや原作『最澄の願い』(すずき出版)
 ひろさちや原作『最澄の生涯』(すずき出版)
 その他人物辞典や歴史辞典

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