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エピソード

036_02

密教の流行U(空海の生涯とその教え)
 最澄と違って、空海にはたくさんのエピソードが残っています。それは何故なんでしょうか。再び空海の生涯を探ってみましょう。
 774(宝亀4)年、空海は母が夢の中で太陽をのんだ時に生まれました(幼名は真魚)。父は讃岐の多度郡の豪族でした。12歳の時、讃岐の国学に入りました。神童と言われました。15歳の時、奈良の叔父をたよって上京しました。叔父は後に伊予親王桓武天皇の皇子)の教育係となった人で、空海はその叔父から『論語』を学びました。
 791(延暦10)年、空海は大学に入学し、高級官僚への道をすすみ始めました。従五位以上(国司クラス)の子弟に入学が許可されていましたので、地方豪族の空海は異例中の異例と言えます。必死に勉強するうちに、空海は仏教に関心を示すようになりました。ある時、大学の先生に仏教について質問すると、「官吏の出世には仏教など役に立たない」と言われ、大学の同僚もどうすれば出世できるかを議論していました。空海はそうした生き方に疑問を持つようになりました。
 その頃、沙弥より「虚空蔵菩薩の真言を百万遍唱えるとあらゆる教えの意義を理解できる」(虚空蔵求聞持法)と教えられました。そこで吉野に行き、10日間、修行しました。1日10万遍唱えて10日で百万遍になるという激しいものです。沙弥から「宇宙の真理を知るにはもっと厳しい修行がある」と聞き、私度僧(無許可の僧)となって、四国に行きました。室戸岬の岩屋で1日2万遍という50日求聞持法を始め、百万遍が終了した時、明けの明星が空海の口に飛び込んできました。空と海とが一体となり、自然に抱かれたように感じたので、空海と名乗るようになりました。
 794(延暦13)年、桓武天皇は平安京へ遷都しました。
 797(延暦15)年、空海は、奈良に帰り、『三教指帰』(儒・仏・道の中で仏教が最高)を完成させました。また、修行中に見たものを求めて経典を読み漁り、大和の久米寺で『大日教』を見つけました。そこには「地水火風空の五大要素で大宇宙は成立し、人間は小宇宙…」と書かれてました。しかし、どうしても理解できなかったので、唐に渡る決心をしました。
 804(延暦23)年、伊予親王(桓武天皇の皇子)の教育係となっていた叔父の世話で、東大寺戒壇院で戒をうけ、正式な僧となり、20年間滞在する留学僧として第2船に乗り込みました。この船には後に三筆と言われた橘逸勢も乗っていました。
 805(延暦24)年、空海は青龍寺恵果を尋ねました。恵果は「宇宙の真理とは密教のこと、密教とは大日如来の教え、曼荼羅は宇宙の姿を図示したものである」と教えました。ここで、空海は自分が室戸岬で見たものは大日如来であったことを確信しました。
 恵果から阿闍利(密教の秘法を伝授することを許るされた師)の位と「遍照金剛」という潅頂名を受けました。その4ヵ月後、恵果は亡くなりました。
 806(大同元)年、空海は博多に帰ってきましたが、20年の約束を破ったため、入京の許可が下りませんでした。ただ、空海は嵯峨天皇に持ち帰った目録を差し出していたので、必ず許されると信じていました。
 807(大同2)年、真言宗を開きました。
 809(大同4)年、3年後、京都の高雄山寺(今の神護寺)に住むことを許されました。そして三筆の1人嵯峨天皇の命で風に書を書き、2人の親交が始まりました。
 816(弘仁7)年、高野山に金剛峰寺を建立しました。
 823(弘仁14)年、嵯峨天皇より教王護国寺(別名東寺)を与えられました。
 835(承和2)年、空海は「私は56億7000万年後、弥勒菩薩とともにこの世に降りてくる」と約束して、亡くなりました。
 空海の教えを説明することは容易ではありません。ひろさちやさん等の助けを借りて説明します。
 即身成仏(この世で凡夫のまま”ほとけ”になること)には「三蜜加持」をします。
(1)身蜜とは、役者が役の人物になりきるように、印を結び、”ほとけ”になりきれば、凡夫の身業と”ほとけ”の身蜜が一致する。
(2)口蜜とは”ほとけ”の言葉(真言)を唱える。真言とは梵語(サンスクリット語)であるが、宇宙の支配者がインド語とは解せないが…。
(3)意蜜とは人間の言語は相対的なもので、絶対的は悟りの境地を表現できない。”ほとけ”の境地になるには、「入我我入観」という方法をとる。自分が大日如来の前に座り、大日如来が自分の胸の中に入り、次に自分が大日如来に入ると念ずるのである。
 次に仏性です。大日如来の言語はあらゆる所で発信されています。それを受信するのが仏心とか仏性と言います。禅宗ではその曇りを払うために坐禅をしますが、密教では「自分が”ほとけ”であると気づく」だけで、”ほとけ”と一体になれるのです。
 以上見てきたように、密教の基本は「仏凡一如」と言えます。もともと私たち凡夫は”ほとけ”の性質を持っているのですから、そのことに気づけば”ほとけ”と一体化していると言えるのです。
 平安時代の初期に、このような宇宙観を持っていた人がいたとは、驚きでもあり、嬉しくもあります。
 四国のお遍路さんの杖や笠に「同行二人」と書いてあります。密教とは”ほとけ”と二人で歩く仏教で、空海は”ほとけ”になって「いつもあなたの側におりますよ」と語りかけているのです。
弘法井戸と空海
 小さい時に遊んだ場所で、旅行に行った先で、いつも聞かされる話が弘法井戸です。汚い風をしたお坊さんに遠くから運んできた貴重な水を飲ませたために、そのお坊さんがお礼に掘ってくれた井戸がこれだというのです。逆に井戸水を「汚い」と言って、お坊さんにかけた所では、水が干上がってしまったという話もあります。
 弘法大師ともあろう人が、水をかけられたくらいで、村人には貴重な井戸水を干上がらせるのも大人気ない話ですが、子供心に深く焼きついたものです。
 日照りに祈ると、池から龍が天に舞い上がり、雨を降らせました。
 決壊しては洪水をもたらす池を修理したとか、困っている人を助けるエピソードがたくさんあります。
 衆生とか凡夫とか表現は違いますが、民衆と共にある姿勢は、今も新鮮な輝きを放っています。
 今回も次の本を参考にしました。有難うございました。
 ひろさちや原作『空海の生涯』(すずき出版)
 ひろさちや原作『空海の宇宙』(すずき出版)
 佐藤良盛著『真言宗』(大法輪閣)
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