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エピソード

037_01

承和の変と藤原良房の摂政
 恒貞親王は従父兄仁明天皇の皇太子でしたが、仁明天皇と藤原順子藤原良房の妹)の間に生まれた道康親王を皇太子に擁立しようとの動きがあることを知って、これまでもしばしば皇太子の辞退を申し出ていました。しかしその度、叔父嵯峨上皇や父淳和上皇に思いとどまるよう説得されてきました。
 840(承和7)年、父淳和上皇が亡くなり、叔父嵯峨上皇が死の床につくと、皇太子恒貞親王の立場は非常に微妙なものとなりました。
 842(承和9)年7月10日、伴健岑阿保親王平城天皇の第1皇子)を訪れて、「嵯峨上皇の病は重く、いずれ国家に乱が起こるでしょう。皇太子恒貞親王を奉じて東国に向かっていただきたい」ということを伝えたと言います。阿保親王は薬子の変に連座して不遇の人生をおくっていた人でした。
 しかし阿保親王はこの謀叛の動きには乗らず、逆に手紙にして、嵯峨上皇の皇后橘嘉智子(太皇太后。仁明天皇の母)に差し出しました。橘嘉智子は事の重大さに驚き、中納言藤原良房を呼び、阿保親王の手紙のことを仁明天皇に伝えるよう言いました。
 7月15日、嵯峨上皇が亡くなりました。
 7月17日、春宮坊帯刀伴健岑と但馬権守橘逸勢は、「皇太子恒貞親王を連れて東国に赴き謀反を企てた」ということで捕らえられました。指示したのは近衛大将藤原良房で、時に39歳でした。そして、京内の警備はもとより都に通じる五道を固めさせました。背後に皇太子恒貞親王が関係ありと言われたからです。
 7月23日、恒貞親王の皇太子を廃する詔が発せられました。恒貞親王側の貴族が大量に処分されました。皇太子問題で良房と対立していた大納言藤原愛発(皇太子妃の父。藤原良房の叔父)は山城郊外に幽閉され、恒貞親王を強く支持していた藤原吉野(式家の中納言)は大宰員外帥とされ、東宮大夫文室秋津は出雲権守とされました。伴建岑は隠岐国へ、橘逸勢は伊豆国へと流罪となりました。これを承和の変と言います。
 8月4日、道康親王(父は仁明天皇、母は藤原良房の妹順子)が皇太子になりました。藤原良房は藤原愛発を追放した後、大納言になりました。
 10月22日、阿保親王が亡くなりました。政変直後の死なので、何か不自然さを感じます。
 阿保親王と橘嘉智子、橘嘉智子と藤原良房、藤原良房と仁明天皇というバトンリレーの巧みさを考えると、彼らが仕組んだ冤罪のような気がします。この事件で誰が得したかが、事件を解く鍵だとすれば、自明のことです。
 850(嘉祥3)年、道康親王が即位して、文徳天皇となりました。時に24歳です。惟仁親王(父は文徳天皇、母は藤原良房の娘明子)が皇太子になりました。時に1歳です。
 857(天安元)年、藤原良房は右大臣から太政大臣に任命されました。これが人臣で最初の太政大臣です。この時、文徳天皇は「良房は、余の生母の兄で、長いこと政務を補佐してきたので、太政大臣に任命する」と勅しています。
 858(天安2)年、文徳天皇は32歳という働き盛りで譲位して、わずか9歳の惟仁親王(父は文徳天皇)が即して清和天皇となりました。その理由は清和天皇の母が藤原良房の娘藤原明子だったからです。
 即位した清和天皇は、藤原良房を摂政に任命しました。摂政とは、幼少の天皇・女帝に代わって治をることです。
権力者によれば、理由は後からついてくる
 摂政とは、天皇に理由がある場合に限って天皇に代わって「政」(まつりごと)を「摂」(と)る人のことです。以前では聖徳太子が、推古天皇が女性であったという理由で摂政になった例があります。しかし、皇族以外で摂政になったのは、藤原良房が最初です。その理由は天皇が幼少であるということです。
 藤原良房が文徳天皇の譲位を歓迎する雰囲気を作り出す。その気を察して、9歳の清和天皇に譲位する。当然9歳の子供では政治が出来ない。すると、太政大臣が天皇に代わって政治を摂ることは誰でもわかる。権力とはこうして形成されるものなのです。
系図の説明(天皇、藤原氏、今回登場した藤原氏、事件の被害者)
藤原長良 藤原基経
(養子)
藤原基経
藤原冬嗣 藤原良房 ━━━━ ━━━ 藤 原 明 子
━━━━ 藤 原 順 子   ‖━━━━ 惟仁親王(清和天皇)
平城天皇 阿保親王  ‖━ 道康親王(文徳天皇)
桓武天皇 嵯峨天皇
 ‖━━ 仁 明 天 皇
橘嘉智子
淳和天皇 恒貞親王

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