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エピソード

037_02

応天門の変と藤原基経の関白
 国宝に『伴大納言絵巻』というのがあります。絵巻の特徴を説明するのによく使いいます。生徒に一番好評だったのが次の場面です。
 (1)応天門の甍が炎上しています。
 (2)会昌門前に公卿や殿上人や下級の役人が野次馬的に集まってきています。
 (3)白い服を着た大納言家の出納の子供と、黒玉模様の服を着た舎人の子が喧嘩をしています。
 (4)そこへ大納言家の子の父親がやってきて、舎人の子を蹴っ飛ばし、「死ぬばかりに踏みつけ」ました。
 (5)出納の子の母親が自分の子の手をとって自宅へと向かいます。
 (6)舎人がやってきて、「子供の喧嘩に親が入るとは何事か」と怒ります。
 (7)大納言家の出納は「私の主人は大納言であるぞ。お前がごとき、だまっとれ」と見下げたものの言い方をします。そこで腹を立てた舎人は「自分は応天門のことを知ってるんだぞ」と大声でわめいてしまいました。
 (8)この話が広まり、やがて役人の耳に届くこととなりました。そこで、役人がその舎人を呼びだして、応天門の事件について問いただした所、「866(貞観8)年の秋、応天門が炎上する直前、門の中から伴善男とその息子の中庸らが駆け出して来たのを見ました」と答えたのです。
 (9)検非違使の一行が大納言の逮捕に向かいます。
 (10)網代車に後ろ向きに座らされた大納言が連行されていきます。
 大納言伴善男について調べてみました。善男は20歳になると、校書殿(内裏の書庫)に勤めるようになりました。そこで書物をあさっているうちに、大伴氏が藤原氏(元中臣氏)らを抑え、栄華を極めていた歴史を知りました。
 それから必至で勉学に励みました。仁明天皇もよく校書殿に出入りしていました。その時目をつけたのが善男だったのです。参議に取り立て、大納言にまで抜擢したのです。
 事件に戻りましょう。 
 850(嘉祥3)年4月、仁明天皇が亡くなり、道康親王(父は仁明天皇、母は藤原良房の妹順子)が即位して、文徳天皇となりました。
 11月、惟仁親王(父は文徳天皇、母は藤原良房の娘明子)が皇太子になりました。時に11ヶ月の赤ちゃん皇太子です。
 858(天安2)年11月、文徳天皇(32歳)が亡くなりました。惟仁親王が即位して清和天皇となりました。時に9歳の子供天皇です。
 866(貞観8)年閏3月、平安宮大内裏の正殿入り口にあたる応天門が炎上しました。その時、大納言伴善男が「これは左大臣源信の仕業です」と訴え出ました。善男は以前から源信と不仲だったのです。
 源信は、嵯峨天皇の皇子ですが、母が傍系の広井氏だったので、源姓をもらい臣家に下りました。この時は左大臣でした。書画・管弦などの風流を好み、政治的野心に燃える人ではなかったようです。
 大納言伴善男は右大臣藤原良相藤原良房の弟)と相談し、近衛中将藤原基経(良房の嫡子)に命じて、左大臣源信を逮捕させようとしました。藤原基経は「太政大臣の藤原良房も承知なのか」と良相に訊ねたところ、良相は「良房は仏法三昧にふけっており、知らない」と答えました。基経は良房に事のあらましを伝えたので、良房は直ちに駆けつけ、左大臣源信のことを清和天皇に釈明し、源信に関しての取り調べは保留になりました。その結果、源信は難を逃れることができました。
 藤原基経の妹藤原高子在原業平の恋人)は清和天皇の女御で、藤原良相の娘藤原多美子も清和天皇の女御という関係です。
 藤原良相について次のようなエピソードがあります。地獄の裁判官小野篁は「この藤原良相は立派な人物なので、もう少し生きさせて下さい」と閻魔さんに頼み込んで、「帰ってきた藤原良相」ということになったんだそうです。
 8月3日、備中権史生大宅鷹取が今度は逆に、伴善男・伴中庸父子が放火犯人であると訴え出ました。善男は強く否定しましたが、結局、伴中庸は「応天門の放火は自分たちであると」自白しました。
 善男は大逆罪(斬刑)になるところを、死一等を減ぜられて伊豆に流罪となりました。
 息子の伴中庸・善男の従者紀豊城らも共犯とされました。
 名門伴(以前の大伴)氏も善男の時一時再興しましたが、ここに歴史から姿を消すことになるのです。これを応天門の変といいます。
 応天門の変で見せた藤原基経の果断な行動から、基経時代の到来を予想させました。
 869(貞観11)年、貞明親王(父は清和天皇、母は藤原基経の妹高子)が皇太子になりました。時に2歳の赤ちゃん皇太子です。
 877(元慶元)年8月、貞省親王が皇太子になりました。
 11月、清和天皇(28歳)が亡くなりました。貞明親王が即位して陽成天皇となりました。時に10歳の子供天皇です。
 884(元慶8)年、太政大臣藤原基経は、陽成天皇(17歳)を譲位させて、光孝天皇を即位させました。光孝天皇はこの時55歳でした。感動した光孝天皇は基経に関白の地位を贈りました。これが関白設置の最初と言われています。
 関白の「関」とは関わるという意味です。「白」は白す(もうす)という意味です。つまり天皇が成人した後も、政治に関わりますということです。藤原氏が天皇を上回る権力を得たことを意味します。
政治を利用してライバルを排斥し、権力を握る権力者
 応天門の変では冤罪で世界から身を引いた左大臣源信、謀略で身を滅ぼした大納言伴善男、この周囲でうごめく多数の人間模様。
 父藤原良房を上回る権力を手にした藤原基経。権力を維持するものは常に、陰謀を政治的に利用する。でなくては、身を滅ぼす。王朝絵巻を想像しがちな私たちに、憎悪渦巻く平安時代の一部を垣間見た思いです。
系図の説明(天皇、藤原氏、今回登場した藤原氏、事件の被害者)
━━━━ ━━━ ━━━━━━━━ 藤原高子
藤原長良 藤原基経  ‖
(養子)   ‖━ 貞明親王(陽成天皇)
藤原基経  ‖
藤原良房 ━━━━ ━━━ 藤 原 明 子  ‖
━━━━ 藤 原 順 子 ‖━━━ 清和天皇
   ‖
藤原良相 ━━━━ ━━━━━━━ 藤原多美子
 ‖━ 文 徳 天 皇
嵯 峨 天 皇
 ‖━━ 仁 明 天 皇
橘嘉智子  ‖━ 時康親王(光孝天皇)
  ‖━ 源信 沢子
広井氏

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