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エピソード

037_04

安和の変と摂関時代の幕開け
 899(昌泰2)年、藤原時平(藤原基経の長男)が左大臣、菅原道真が右大臣に就任しました。
 901(延喜元)年、右大臣の菅原道真が太宰権師に左遷されました。
 902(延喜2)年、醍醐天皇(父は宇多天皇)が親政を開始します。親政の「」とは、自らという意味で、「」はまつりごとという意味です。つまり天皇自ら政治を行い、摂関を置かないということです。一部の歴史家はこの時代を「延喜の治」と読んで、理想化しています。後の後醍醐天皇もこの時代を理想として、生前から諡号を「後醍醐」とするよう遺言したと言います。
 3月、醍醐天皇は、勅旨田を停止したり、閑地・山野などの占有を禁止しました。これを延喜の荘園整理令といいます。
 しかし、醍醐天皇がやったことは延喜の荘園整理令を出したり、『延喜格式』を編纂したりぐらいで、承平・天慶という時代を変革する大事件が起きているのもこの時代です
 904(延喜4)年、崇象親王(父は醍醐天皇、母は藤原時平の娘穏子)が皇太子になりました。
 905(延喜5)年、左大臣の藤原時平が撰出した延喜式を施行しました。
 908(延喜8)年、左大臣の藤原時平が撰出した延喜格を施行しました。
 909(延喜8)年、左大臣の藤原時平(39歳)が亡くなりました。醍醐天皇の本当の親政です。
 911(延喜11)年、皇太子の崇象親王は、保明親王と改名しました。
 914(延喜14)年4月、三善清行は、醍醐天皇の勅に応じて意見封事12か条を奏上しました。
 8月、藤原忠平(藤原基経の次男)が右大臣になりました。醍醐天皇の親政が終わりました。
 920(延喜20)年、醍醐天皇の皇子である高明親王に源の姓を与えました。
 923(延長元)年3月、皇太子保明親王(21歳)が急死しました。菅原道真の怨霊の祟りとの噂が流れ、菅原道真は、朝廷からは罪を取り消して本官に戻すという詔勅がでました。
 4月、慶頼王(父は醍醐天皇の皇子保明親王、母は藤原時平の娘仁善子)が皇太子になりました。
 924(延長2)年、藤原忠平が左大臣になりました。
 925(延長3)年、慶頼王が亡くなり、寛明親王(父は醍醐天皇、母は藤原基経の娘穏子)が皇太子になりました。時に3歳でした。
 930(延長8)年9月、醍醐天皇(46歳)が亡くなりました。
 11月、寛明親王が即位して、朱雀天皇となりました。時に8歳でした。幼少の天皇ということで、藤原忠平が摂政となりました。
 935(承平5)年、平將門は、平国香・源護を戦い、国香を殺害しました。これを承平・天慶の乱の始まりといいます。 
 936(承平6)年、藤原忠平が太政大臣になりました。
 939(天慶2)年12月、平將門は、下野の国衙を占領して、新皇を自称しました。
 12月、藤原純友は、南海で謀叛をおこしました。
 940(天慶3)年12月、藤原秀郷は、平將門の首級を挙げました。
 941(天慶4)年6月、小野好古らは、藤原純友を降伏させました。
 944(天慶7)年6月、成明親王(父は醍醐天皇、母は藤原基経の娘穏子)が皇太子となりました。
 946(天慶9)年4月、朱雀天皇が譲位して、成明親王が即位して村上天皇となりました。
 947(天暦元)年4月、藤原実頼が左大臣、藤原師輔が右大臣に成りました。
 949(天暦3)年8月、藤原忠平が亡くなると、24歳の村上天皇は、摂関を置かずに、親政を開始しました。一部の歴史家はこの時代を「天暦の治」と読んで、理想化しています。
 950(天暦4)年7月、憲平親王(1歳)が皇太子になりました。
 966(康保3)年1月、源高明が右大臣になりました。
 967(康保4)年5月、村上天皇(42歳)が亡くなりました。
 9月、右大臣藤原師尹(父は藤原時平)は一族と相談し、次男の為平親王を飛ばして、三男の守平親王(7歳)を皇太子にしました。
 10月、皇太子の憲平親王が即位して、冷泉天皇(18歳)となりました。
 12月、源高明が左大臣になりました。
 968(安和元)年2月、左大臣源高明(父は醍醐天皇、母は源周子。醍醐源氏の祖。55歳)は藤原氏と姻戚関係がなく、自分の家で政治をするほどのワンマンでした。
 源高明の異母弟である村上天皇と皇后の藤原安子(父は藤原師輔)は、在世中に為平親王を次の皇太子に定めようとしていました。しかし、為平親王が源高明の娘を妃としたので、藤原氏は源高明が実権を握ることを恐れて、為平親王の立太子に反対しました。
 皇后の安子が亡くなったので、為平親王の皇位継承は消えました。
 969(安和2)年3月25日、左馬助源満仲と前武蔵介藤原善時らが謀反を右大臣藤原師尹に密告しました。それによると中務少輔橘繁延・左兵衛大尉源連らが皇太子守平親王を廃して兄の為平親王を皇太子に立てようと企てているというのです。源満仲は藤原純友の乱の征討に功あった経基の子で清和源氏の嫡流です。
 右大臣藤原師尹以下公卿らは直ちに宮中に参内し、諸門の出入りを禁じて警護を固める一方、密告文を太政大臣藤原実頼のもとへ届けました。また橘繁延らを捕らえて喚問したところ、罪を認めました。さらに検非違使源満季らは前相模介藤原千晴(平将門の乱を鎮定した秀郷の子)を捕まえて投獄しました。
 この事件には左大臣源高明(為平親王の妃の父)が関わっていたというのです。
 3月26日、源高明は出家して京都に留まることを嘆願しましたが、太宰権帥に左遷されました。村上天皇・皇后安子は亡くなっており、高明を支援する者は誰もいません。これを安和の変といいます。
 4月、橘繁延・藤原千晴(藤原秀郷の子)らも流罪となりました。
 8月、冷泉天皇(20歳)が譲位して、師貞親王が皇太子になりました。
 9月、守平親王(11歳)が即位して、円融天皇となりました。
 安和の変はライバル源高明を排除しようとする藤原一族の野望に、ライバル藤原千晴の勢力を弱めようとする清和源氏の源満仲の企てが結びついたと言われています。これ以後、藤原氏は他氏排斥を完了して、藤原氏に対抗するものはいなくなり、摂関常置の時代をもたらしました。
 源満仲は新興の武士社会における清和源氏発展の基礎をつくりあげたといえます。
犯人は事件で得したものと言うのが鉄則
 安和の変で得をしてのは藤原師尹(忠平の子)で、源高明の左遷で空席となった左大臣に就任しています。
 今回、系図に母を苦労して探して記入しました。それで分かったことは、清和天皇の皇子から源氏、醍醐天皇の皇子からも源氏が誕生していますが、母親が両方とも藤原氏でない傍系の出身だったことです。
 『源氏物語』でも、天皇の皇子として生まれたが、母親が「いとやんごとなききわにはあらぬ」ため、光源氏となったとありました。この歴史事実が『源氏物語』の背景にあったんだと、思わず微笑んでしまいました。
 次に得をしたのは源満仲です。摂関家の荘園である摂津国多田荘(現在の兵庫県川西市)に移り住み,荘園警備の任務を預りながら付近を干拓・開発して一拠点となし,多田源氏の祖となりました。多田源氏からは八幡太郎義家や将軍頼朝が出ています。
系図の説明(天皇、藤原氏、今回登場した藤原氏・源氏、事件の被害者)
藤原高子
  ‖━ ━━━━ 陽成天皇
 ‖ 棟貞皇女
 ‖   ‖━ 貞純親王 源経基王 源満仲
 ‖  ‖ 藤原時平
 ‖  ‖ 藤原忠平 藤原実頼
 ‖  ‖ 藤原師輔 藤原伊尹
 ‖  ‖ 藤原穏子 藤原安子 憲平親王(冷泉天皇)
 ‖  ‖    ‖━ 為   平   親   王
清 和 天 皇 朱雀天皇  ‖ 守平親王(円融天皇)
 ‖━ 村  上  天  皇
藤原胤子
  ‖━ ━━━━ 醍醐天皇
宇多天皇   ‖━ 源高明 ━━━━ ━━━━━━━━
源周子

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