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エピソード

038_01

藤原氏一族の争い(藤原兼通、藤原兼家、藤原道綱)
 967(康保4)年、村上天皇(42歳)が亡くなり、憲平親王(父は村上天皇、母は師輔の娘安子)が即位して、冷泉天皇となりました(18歳)。
 969(安和2)年8月、冷泉天皇(20歳)が譲位して、師貞親王が皇太子になりました。
 9月、守平親王(11歳)が即位して、円融天皇となりました。
 970(天禄元)年、藤原実頼(父は忠平)が亡くなると、藤原師輔(実頼の弟)の嫡男藤原伊尹が摂政に就任しました。円融天皇は伊尹の甥、皇太子の師貞親王(後の花山天皇)は伊尹の孫です。
 971(天禄2)年、前の右大臣である伊尹が太政大臣になりました。藤原頼忠(父は実頼)は正三位・右大臣になりました。
 972(天禄3)年、摂政で太政大臣の伊尹が亡くなりました。次の関白には伊尹のすぐ下の同母弟藤原兼通が関白となりました。兼通は大納言を経ずして内大臣となっており、これも異例の抜擢です。兼通は自分の娘藤原■子を入内させて中宮とするなど、勢力拡大にせっせと努めていました。藤原安子(円融天皇の母であり伊尹らの兄弟)が「関白は兄弟の順に」と遺言し、円融天皇がそれを実行したのでした。
 しかし、この兼通の関白就任を最も憎んだのがその弟の藤原兼家でした。兼通はもともと権中納言でしたが、大納言である兼家を飛び越えて関白に就いたからです。
 976(貞元元)年、冷泉上皇(円融天皇の叔父)と女御藤原超子(父は藤原兼家)との間に皇子(居貞親王)が生まれました。兼通の娘と天皇の間には子供がいなかったので、兼家は天皇家とは一番深い姻戚関係になりました。
 977(貞元2)年、兼通は死の直前、次の関白に弟の兼家ではなく、頼忠(兼家の従兄弟)を指名しました。藤原兼通の危篤の報が兼家の元にもたらされました。兼家は危篤である兄の家に駆けつず、兼通の邸の前を通って内裏に参上し、関白への就任を申請しました。しかし、兼通はまだ危篤であっても死んだわけではありません。
 この弟の行動を知った兼通は怒りのあまる血が逆流したのか、危篤状態を脱して、内裏に参上し、最後の人事を行ったのです。その結果、関白が弟の兼家(九条流)ではなく、小野宮流の頼忠となったのです。その上、兼通は兼家を治部卿に左遷し、さらに、藤原道綱(父は兼家)を土佐権守に追放して、やっと亡くなりました。
 978(天元元)年6月、兼家はやっと参内することができました。8月、藤原詮子(父は藤原兼家)が円融天皇の妃になりました。10月、兼家は頼忠の推薦で従二位右大臣となりました。頼忠は太政大臣となり、その子藤原遵子(21歳)も円融天皇の妃になりました。 
 円融天皇には子供がいませんでした。しかし、遵子が皇子を生めば、関白の孫ですから、有力な次期皇太子候補になります。兼家には居貞親王がいましたが、これは冷泉院が譲位してから生まれた皇子ですから、円融天皇に皇子が生まれれば、当然その皇子が有利となります。 
 980(天元3)年、円融天皇の第1皇子(懐仁親王)が誕生しました。母は、兼家の娘の藤原詮子です。
 982(天元5)年、遵子が皇后となりました。この異例の人事は、円融天皇が兼家の強引さに反発したからでしょうか。皇后の位を与えた上で、皇子が生まれれば、長幼の順が全てではないので、頼忠の孫が天皇になる可能性はあったのです。しかし、園融天皇と頼忠の願いもむなしく、遵子は皇子を生むことはありませんでした。
 984(永観2)年、兼家の圧力で円融天皇が譲位して、師貞親王(父は冷泉天皇、母は藤原伊尹の娘懐子)が即位しました。花山天皇です(17歳)。皇太子には懐仁親王(父は園融天皇、母は藤原兼家の娘詮子)がなりました。この譲位は、自らの血筋を皇統からはずされたくない円融天皇と、孫の懐仁親王を皇太子にしたい兼家の妥協の産物といえます。
 しかし、引き続き花山天皇(師貞親王)は頼忠を関白に任命しています。花山天皇は特に有力な後ろ盾を持たなかったので、有力公卿はこぞって娘を妃にさせました。関白である頼忠も四女の藤原ィ子をさっそく妃にさせています。兼家は花山天皇の動きを不機嫌な思いで見ていました。
 986(寛和2)年、花山天皇は即位してわずか2年で譲位させられました。そのいきさつは次の通りです。
 花山天皇は、寵愛していた弘徽殿の女御(祗子)が妊娠8カ月で死んでからは失意のどん底にありました。藤原兼家の次男である藤原道兼は「自分も一緒に出家する」と花山天皇に同情して誘い出し、元慶寺に連れて行きました。この時、花山天皇が心変わりしないようにと、護衛をつけるという用意周到さです。花山天皇が剃髪を終える頃、道兼は「出家前の姿を親に見せてきます」と言い残して姿を消しました。花山天皇はこの時初めて騙されていたことに気が付きましたが、時既に遅しです。急を知って駆けつけた側近も一緒に出家しています。側近が気がつかぬほど巧妙な作戦だったことになります。
 一方、兼家の長男藤原道隆と三男藤原道綱(母が『蜻蛉日記』の作者)は清涼殿から三種の神器を持ち出し、皇太子懐仁親王(母は藤原兼家の娘詮子)のいる兼家邸へと運び込みました。
 その頃宮中では、兼家の末子の藤原道長が関白頼忠に天皇が行方不明である報告し、懐仁親王の即位が決定されました。一条天皇です(7歳)。花山天皇は17歳で即位し、19歳で仏門に入るという、藤原氏によって振り回される人生を経験したのです。
 このクーデタにより頼忠は関白を辞任し、ついに兼家が念願の摂政となりました。皇太子には冷泉院の第2皇子の居貞親王がなりました。これも兼家の外孫です。これ以降兼家の子孫による家督争いとなります。
 989(永延元)年、頼忠はこのクーデタの功により、死後、正一位が追贈されました。
『蜻蛉日記』とその作者と権力者兼家と
 藤原道綱の母(19歳)は藤原兼家と結婚しました。それからの21年間にわたる結婚生活について書いた日記が、有名な『蜻蛉日記』です。高校時代、岩波の古典体系を読みました。私は特にその中で、「嘆きつつひとり寝る夜」の場面が印象にのこりました。
 兼家には時姫という本妻があり、彼女との間に道隆も生まれていました。兼家はそれ以外にも8人の妻を持っていました。その1人が道綱の母です。彼女が20歳の時、道綱が生まれました。「嘆きつつひとり寝る夜」は道綱が生まれて間もない時の日記です。
 兼家は3日間、道綱の母の元に顔を出さない日が続きました。当時、3日続けて女の元に通うと結婚が成立する習慣でした(三日夜餅)。そして、3日目の夜が終わった朝、女の家から帰って書く手紙のことを「後朝(きぬぎぬ)の文」というのです。
 兼家は何事もなかったように道綱の母の家を訪れ、「しばらく通わなかったのは、あなたの愛情が変わらないか試したたかった」とぬけぬけと言います。夕方、「宮中に用事がある」と言って又、出かけて行きました。下女に尾行させてみると、案の定、町の小路の女の所へ行っていました。
 悶々として過ごしていると明け方に門をたたく音がしました。開けるべきか、開けぬべきか、迷っているうちに時間が経ってしまいました。兼家はあきらめて、どこかへ行ってしまいました。
 翌朝、兼家の愛情をつなぎ止めようとして、兼家の愛情も衰えたことを風刺しようと色あせた菊に差して、得意な歌を送りました。「なげきつつ 一人ぬる夜のあくる間は いかに久しきものとかは知る」
 兼家から返事が来ました。それには「げにやげに 冬の夜ならぬ 槙の戸も おそくあくるは わびしかりけり」とありました。
 あなたが言うように「冬の夜は明けるのが遅い」が、寒い夜に外で私が待っているのに「あなたの家の門も開くのが遅い」というやり取りは道綱の母のフィクションでしょうが、相手を待つという当時の女性の気持ちを「しみじみ」と感じたものです。
 この後、兼家は道綱の母の所にも、正妻の時姫の所にも余り通わなくなりました。道綱の母と時姫は共闘して、時々訪れる兼家を追い返したりしています。『源氏物語』にも見える記述です。綺麗な衣装に身を包み、優雅な生活を送っているとされる当時の女性にあっては、妻問婚と一夫多妻的な当時の女性の立場がいかに弱く、惨めであるか、よく描写されていると感じました。
系図の説明(天皇、藤原氏、今回登場した藤原氏、事件の被害者)
藤原実頼 藤原頼忠 ━━━━ 藤   原   遵   子
藤 原 ィ 子
藤原師輔 藤原伊尹 藤原懐子
   ‖━ 師貞親王(花山天皇)
藤原兼通 ━━ 藤   原   嬉   子 
藤原兼家 ━━ 藤原道隆
 ‖ 藤原道長
 ‖ 藤 原 超 子
 ‖ ━━━━━━━━ 藤原詮子
 ‖   ‖
藤原安子 冷    泉    天    皇 ‖━ 懐仁親王(一条天皇)
   ‖━   ‖
 ‖ ━━━━ 円    融    天    皇
村上天皇

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