print home

エピソード

038_02

藤原道長・藤原頼通の摂関全盛時代
 藤原兼家(父は師輔)が兄藤原兼通と対立して不遇の時を過ごしていた時のことです。兼家が従兄弟の藤原公任(師輔の兄実頼の子の関白頼時の子)の秀才ぶりに、「私の子供たちは公任の影すら踏めそうにもない」と言いました。
 それを聞いた末っ子の道長(10歳)は「影でなく、面をふんづけてやる」と答えたといいます。
 関白藤原道隆(兼家の長子)が病のため長子藤原伊周が内覧となって政務を補佐しました。
 995(長徳元)年4月10日、道隆の死により伊周は当然自分が関白になるものだとと考えていました。しかし道隆の後は、伊周の叔父(道隆の弟)右大臣藤原道兼が関白となりました。花山天皇を無理矢理退位させるため、元慶寺へ誘った張本人です。
 4月27日、道兼(35歳)は関白の宣旨を受けました。
 5月8日、しかし道兼は疫病にかり亡くなりました(7日関白)。道兼の死で、今度こそ自分の番であると思った伊周に強力なライバルがあらわれました。正二位内大臣の伊周(22歳)の叔父である正三位権大納言の藤原道長(30歳)です。
 一条天皇は次の関白を誰にするか悩んでいました。一条天皇の中宮藤原定子は兄の伊周を推薦し、一条天皇の生母の藤原詮子は弟の道長を推薦します。詮子は清涼殿にのりこみました。しばらくして出てきた詮子は道長ににっこり笑って「お許しが出ましたよ」と言いました。この時、道長の内覧と、氏の長者が決定しました。
 道長の位も右大臣となり、伊周を超えました。伊周はこれが不満で、道長と満座での口論したり、道長の従者と藤原隆家(伊周の弟)の従者が争ったりしました。
 996(長徳2)年、三の君(太政大臣藤原為光の娘)に通う伊周が、四の君に通う花山法王を恋敵と誤って、伊周の弟隆家が法王に弓矢を引いてしまったのです。そのため、伊周・隆家らは流罪されてしまったのです。自滅です。その結果、道長に左大臣が転がり込んで来ました。
 997(長徳3)年、伊周らは赦免されましたが、道長と争う元気はもうありませんでした。
 999(長保元)年、道長(37歳)は長女の藤原彰子(12歳)を一条天皇(20歳)の女御としました。この時、藤原公任に祝いの歌を作らせました。10歳の時の約束を実行したのです。
 1011(寛弘8)年、三条天皇(父は冷泉天皇、母は藤原道長の妹超子)が即位しました(36歳)。皇太子に敦平親王(父は一条天皇、母は道長の長女彰子)がなりました。
 1012(寛弘9)年、藤原妍子(道長の次女。18歳)が三条天皇(叔母の子=従兄弟)の中宮となりました。
 1016(長和5)年、三条天皇が譲位を決意しました。その背景は次の通りです。
 三条天皇にとって道長は外叔父ですが、藤原超子が早く死んだので、幼少の時は道長と同じ邸で過ごさず、長い皇太子時代を通じて道長への批判を培ってきました。一方道長は、皇太子敦成親王の天皇即位を望んでいました。そこで、三条天皇が眼病で食事の箸も取れないのを口実に、道長に譲位を迫られました。三条天皇は次の皇太子に自分の第1皇子の敦明親王を立てることを条件に、敦成親王に譲位しました。後一条天皇です。わずか9歳でした。道長にとっては、初めての外孫天皇となります。外祖父道長は天皇が幼少ということで、摂政の地位につきます。
 道長は皇太子に三条天皇の意志を汲んで敦明親王を立てました。しかし、道長は壺切の剣を敦明親王に渡さないなどのいじめをあからさまにしました。 
 1017(寛仁元)年、三条天皇が亡くなりました。皇太子敦明親王は後ろ盾を失い、自ら皇太子の位を辞しました。そこで、道長は直ちに外孫敦良親王を皇太子にしました。将来を見据えた道長は摂政を息子の頼通(38歳)にゆずり、関白太政大臣の地位に就きます。
 1018(寛仁2)年、藤原威子(道長の三女。20歳)が後一条天皇(威子の姉の子。11歳)の女御となりました。
 1020(寛仁4)年、公卿24人中、藤原氏が21人を占めます。道長の権勢の大きさが分かります。
 1021(寛仁5)年、藤原嬉子(道長の四女。15歳)が皇太子敦良親王(嬉子の姉の孫。12歳)の妃になります。
 1027(万寿4)年、「この世をば 望月の 欠けたること…」と詠んだ道長も、天命にはかてず、62歳で亡くなりました。死の直前、道長は法成寺の九体の阿弥陀如来の手から五色の糸を自分の手に結んで、北枕で西向きに臥したといいます。妻藤原倫子や関白藤原頼通(父は道長)以下公卿・殿上人らに見取られながら、天台座主が導師として念仏読経する中、息を引き取ったと言われています。英雄らしい大往生だったというのです。
貴族の子は天皇になれないが、貴族の孫は天皇になれる。それが外戚関係
 藤原道長の子は天皇になれません。でも道長の孫は天皇になれます。その秘訣が外戚政策です。当時天皇には10人の妻が法的に持てる事になっていました。1人の皇后(正妻)、2人の中宮、3人の女御、4人の更衣です。皇后以外は最初に誕生した男子が皇太子となり、そして天皇になるのです。 
 当時は妻問婚といい、男子が通って、生まれた子供は母親の父(外祖父)が面倒を見るのです。小さい時、外祖父の膝の上で育った天皇は、成人後も外祖父に逆らうことは出来ません。この関係を利用しようと、時の権力者は自分の娘を天皇の元へ次々と差し出すのです。父の政略に使われる娘の気持ちはどうなのでしょうか。
 20歳も年上の従兄弟と結婚させられ、譲位を強要された三条天皇の中宮妍子は父道長をどう思ったでしょうか。
 9歳も年下の子供で、しかも姉の子と結婚させられた後一条天皇の女御威子は父道長をどう思ったでしょうか。
 12歳の子供で、しかも姉の孫と結婚させられた皇太子敦良親王(後の後冷泉天皇)の妃嬉子は父道長をどう思ったでしょうか。
 現在なら血族結婚として認められないことを、国家のためとか、藤原家のためとか、口実を設けて、実は私利私欲のために実行してきたのが道長です。父の言いなりになる娘も当時としてはベターな選択を思っていたのでしょうか。異常というのは現在の物差しで判定しているからでしょうか。
 私はこうした異常はやはり異常だといいたい。
 道長のしが英雄らしい大往生だとは認めたくない一心で、記録を探しました。ついにありました。
 道長は晩年、急性で激痛のある化膿性炎症をわずらっていました。疔が多く集まって腫れ物ができました。死の直前、背中の腫れが乳房ほどとなり、医師が腫れた部分に針をさしたが、血膿が少し出ただけで、苦しみもがき、息を引き取ったといいます。
 道長のために犠牲になった人々のために天が与えて苦しみでしょうか。やっとこれで、道長も親しみのある人間になれたと思いました。
系図の説明(天皇、藤原氏、今回登場した藤原氏、事件の被害者)
公任
頼忠 ━━ 藤 原 遵 子
ィ子
伊尹 懐子
‖━ 花山 伊周
兼通  ■ 子  隆家
兼家 道隆 ━━ 定子
道兼
道綱
道長 頼通
━━ ━━ 妍子
━━ 彰子
━━ 威子
━━ 嬉子
超子 ━━ 後朱雀
詮子 後一条
三条
安子 冷 泉 天 皇 ‖━ 一条天皇
‖━ ━━ 円  融  天  皇
村上

index