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エピソード

039_01

摂関時代の地方政治(偽籍、徭任、受領、成功、重任)
 政治史は何年に、誰が、何をした、その歴史的意義はこうだったと、簡単に説明できます。生徒も納得しています。しかし、経済史になると、年月日も不明だし、言葉が難解だし、説明する側も十分理解していないので、聞く側も納得できない。しかし、歴史はダイナミックな経済を原動力として変化している訳ですから、避けて通ることは出来ません。いつも苦労するのが、経済史です。私の言葉(理解)で、説明してみます。
 政府は902(延喜2)年には、有名な「延喜の荘園整理令」を出しています。これは律令の基本である「公地公民制」の原則を破る荘園(私的所有地)が拡大していることを物語っています。
 班田収授6年1班(6年に1回土地を収公・授与)だったのが、12年1班(12年に1回土地を収公・授与)に変更したりしています。これは現実可能な方法で班田収授を実施しようとしていることを物語っています。つまり緩んだ律令制を再建しようと努力しているということです。
 当時の社会をみると、5戸435人の内訳が男子59人、女子376人という戸籍があります(902年。阿波の国)。課税対象の男子が全体の13.6%では、班田を与えることも出来なければ、当然税金もとれません。現実に902年が班田収受の行われた最後の年となっています。
 これは当時の税制が人的資源に課税するとなっているからです。そのことに気がついた百姓が、タガが緩んだ国家からの税金逃れ対策として、偽籍を考えたのです。
642年 765年 860年 893年 910年 備中国邇摩郡の
課丁数の変化
兵20000人 1900人 70人 9人 0人
 そこで政府が考えたことは、ともかく方法はどうでもいいから、税金だけは国家に収納する方法を考え出しました。その方法とは国司に一定の税の納入を請け負わせ、そのかわり地方政治を国司の自由裁量に任せたのです。
 国司はこの請負制度を自分の支配下にも応用しました。税を請け負った有力農民を「」といい、徴税単位の土地を「名」といいます。この名をたくさん持っている田を「大名田」といいます。大名と言う名はこれがルーツです。戦国時代や江戸時代、威張って名乗っていた大名とはたくさん土地をもった大百姓という意味です。働く人が次の主役になるのです。
 それはともかくとして、課税対象が人的資源から土地資源へと変化していったのです。これは律令支配の原則が崩れたことを物語っています。
 摂関時代、中央にいても出世の望みのない貴族は、自由裁量権のある国司を希望して、現地に赴きました。国司は任地に赴くのが原則ですが、のち現地に赴かない国司(徭任)と区別するために、任地に赴く国司を受領といいます。
 中央で儲けられないなら地方で儲けようという、最初から不純な動機で赴任する受領ですから、現地と衝突することは当然です。その代表が尾張国郡司百姓等解(988年)です。『今昔物語集』では「受領は倒れるところに土をつかめ」と表現されています。
 美味しい国司になるための成功や、再度国司に任命してもらう重任や、中央にいて美味しい所だけを掠め取る徭任などが誕生します。
 徭任国司が増えると、代理人(目代)を現地の政庁(留守所)に派遣し、現地の世襲的有力者(在庁官人)を指揮下に治めて政治をするようになりました。この目代と在庁官人らがやがて歴史の舞台の主役になっていくのです。
歴史は地方(経済)から動く
 政治の腐敗を、働く者(ここでは百姓)の智恵で突き動かしている歴史のダイナミズムを感じます。
 経済史をみていると、歴史のダイナミックな動きを察知できます。過去の歴史は情報がほとんど知らされているので、分析ができます。
 過去の歴史を知り、現在を知る。現在を知り、未来に対応するというのが本当の歴史の勉強です。しかし、今私たちは情報を全て知るうる立場にあるだろうか。情報操作でウロウロしているのではなかろうか。エセ経済学者の予言に振り回されているのではないだろうか。本当の情報を求めて、必死な私です。
 未来の歴史家は迷走する2000年代初頭をどう評価するのでしょうか。

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