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エピソード

040_02

地方武士団の成長T(平将門の乱)
 高望王桓武天皇の曾孫)は上総介になって東国の任地に赴任しました。高望王には平国香平良兼平良持平良正平良文の子がいました。鎮守府将軍平良持(又の名は良将)の子が平将門です。良持は早く亡くなっています。
 將門は伯父国香らに勧められ、父の様に京都に上って、役職に就くことを決意しました。その間、將門の土地を国香らに預けました。
 平将門は京都にのぼり、右大臣藤原忠平に仕えました。將門は検非違使になろうとしましたが、桓武天皇の直系とはいえ、京都は藤原一族の摂関時代でした。藤原一族以外の者の出る幕はなく、やがて夢破れて、帰郷することになります。
 930(承平元)年頃、国に帰った将門は、伯父国香らに預けていて土地の返還を求めましたが、生煮えの返事ばかりで、土地を返してもらえませんでした。
 935(承平5)年、将門は源護平真樹の土地争いの調停を引き受けましたが、源護に不利な結果となりました。そこで、源護の息子源扶源隆源繁の3人將門を討とうとして、逆に殺されてしました。将門の父を除いて、伯父たちは皆、源護の娘を妻に迎えていましたので、平氏一族の問題になりました。その上、将門は源護に味方した伯父の国香を殺したので、平氏一族の争いに発展していきました。
 936(承平6)年6月、将門は下野国の国府の戦いで、良兼や平貞盛(伯父国香の子)らを破ります。
 9月、源護は將門の反逆を朝廷に訴えたので、将門に京都から呼び出し状がきました。
 10月、将門は弁明のため京都に上りました。この時、以前仕えていた藤原忠平が太政大臣だったので、將門の反逆は取り上げられませんでした。 
 937(承平7)年4月、將門は下総に帰ってきました。無実ということで、將門の名声が高まりました。 
 938(承平8)年、平貞盛は京都に上って、再び將門を訴えました。
 隣国の武蔵国に権守興世王(桓武天皇5世の孫)と介源経基(清和源氏の祖)が赴任してきました。そのため、税の徴収をめぐり、地元の豪族である郡司武蔵武芝と興世王・源経基とが対立しました。
 939(天慶2)年2月、この対立に将門が調停を買って出ました。調停がうまくいき、地元の豪族武蔵武芝と武蔵権守興世王は手打ち式を行いました。これに不満の源経基の兵が武蔵武芝の兵と衝突しました。そこで、源経基は将門と興世王が謀反をたくらんでいると朝廷に訴えました。
 5月、百済貞連が武蔵守として赴任してきました。今度は守貞連と権守興世王とが対立しました。
 6月、平貞盛が将門追討の命令をもって下総に帰ってきました。
 常陸では国守常陸介藤原維幾と地元の豪族藤原玄明が対立しました。興世王、ついで官物を私物化したとして逮捕状が出ている藤原玄明が将門を頼ってやって来ました。
 11月、常陸介藤原維幾は藤原玄明の引渡しを要求してきました。しかし將門は引渡し要求に応じず、1000人余の兵を率いて、逆に常陸国府を襲撃しました。朝廷軍3000人を敗走させ、常陸介藤原維幾を捕らえた上に略奪、放火までしてしまいした。
 この時の武蔵権介興世王が「1国を討ってもあなたの責任は重い。同じことなら坂東諸国を奪いましょう」と進言しました。国府襲撃は明らかに国家に対する反逆です。將門は武蔵権介興世王の進言を受けて、「同じことなら、坂東を手にいれ、京都に攻め上ろうと思う」と答えました。
 12月、下総、武蔵、常陸、下野、上野など関東8カ国と伊豆を平定しました。そして、京都の朝廷にならって、本拠の下総に御所を建て、大臣などの官職も京都風にました。將門は諸国の除目をおこない、弟や家来を板東八か国の国司に任命し、自らは「新皇」と称しました。さながら、小さな独立国家という感じです。
 ちょうどこの頃、藤原純友の乱が瀬戸内海で活動をはじめていたので、朝廷では、東西呼応して事件を起こしたのではないかとハラハラ、ビクビクしたということです。
 940(天慶3)年1月、藤原忠文を征夷大将軍に将門追討の命令が下りました。出発に時間を費やしている間に、下野押領使藤原秀郷・平貞盛らが下野国で将門追討の兵をあげました。
 2月13日、將門は下野で藤原秀郷・平貞盛の軍と戦って破れ、下総国まで逃げました。 
 2月14日、將門は猿島郡北山の戦いで、大きなムカデを退治した英雄「俵籐太」(藤原)秀郷の放った矢を眉間に受けて絶命しました。この結果、関東は平貞盛一族が勢力を拡大することになりました。
 この項は『日本合戦全集』などを参考にしました。
侍の争いを侍が解決する時代
 平將門のように中央の権威に恐れない若者が登場したり、「俵籐太」(藤原)秀郷のように名前を聞いただけに震え上がる新しい人物が出てきました。彼らのことを侍といいます。
 逆に征夷大将軍に任命され、準備に時間をかけて結局役に立たなかった旧来の貴族藤原忠文のような人物もいます。いずれ消え去る運命の人々です。
 將門については関東では広く伝説が残っています。
 捕らえられた将門は、京都の三条河原で、首を切られました。切られた首は関東に住んでいる愛人の「桔梗の前」が恋しくて、江戸の神田まで飛んで行きました。江戸では、この首を神田明神の御神体として、今でも祀っています。
 現在、神田祭りが盛大なのは、朝廷に反抗し、農民の為に戦ったという將門の気性が江戸っ子とぴったり合っているという人もいます。ここでも判官びいきの考えが存在します。
系図の説明(天皇、平氏・源氏の祖、今回登場の平氏)
桓武天皇 国香 貞盛 維衡 正度 正衡 …平清盛
 ‖━ 葛原親王 高見王 平高望 良将 將門 惟将 惟時 (北条氏)
多治比真宗 良文 忠頼 将恒
棟貞皇女 忠常
  ‖━ 貞純親王 源経基 源満仲 頼信 頼義 義家 義親 為義 …源頼朝
清和天皇 頼光 義国 義重 (新田氏)
義康 (足利氏)
義光 義業 (佐竹氏)
義清 (武田氏)
盛義 (平賀氏)

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