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エピソード

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地方武士団の成長U(藤原純友の乱)
 藤原純友は、四国伊予で瀬戸内海を航行する船を海賊から護る伊予掾(地方長官)に任命されていました。任期を終えた後も、純友は伊予から離れませんでした。
 934(承平4)年、藤原純友は国守紀淑人の制止を振り切って自分の思うような行動をとりました。まず、純友は伊予の日振島に本拠を構え、船1000隻を操り、伊予国喜多都で、官有米3000石を盗むという事件を起しました。次に、他の海賊とも手を組んで、瀬戸内海に航行する官船を、次々に襲い始めました。これを藤原純友の乱といいます。
 備前介の藤原子高は、純友反乱の様子を京都に知らせようとしましたが、摂津国で追ってきた純友に捕らえられました。そして見せしめとして、耳を切り、鼻をそいだ後、子供と一緒に殺され、妻まで奪われました。摂津の国司まで襲われる始末です。京都では、「純友が攻め上ってくるのではないか」と言う噂が流れ、町中が一時騒然としました。
 935(承平5)年、朝廷は参議小野好古を山陽道追捕使に任命し、現地に派遣したがはかばかしい成果はあがりませんでした。その間にも朝廷は藤原純友に従五位下(上国の国司クラス)の位を授けて懐柔しようとしたが、これも失敗しました。
 941(天慶4)年、純友は活動の場を西に移して、筑前国に上陸して一気に大宰府を攻め、守備兵を撃破して府内の財物を奪い建物に放火しました。この報を受けた追捕使小野好古らは、直ちにそれを朝廷に報告する一方、海陸両面より兵を進めて大宰府に向かいました。
 5月20日、小野好古は博多湾において純友の軍勢と対決しました。好古の部下の大蔵春実らは多くの海賊を打ち倒し、海賊の船に火を放ち、また800百艘余りの船を捕獲しました。この戦闘で純友の軍勢は壊滅に近い打撃を受け、純友もかろうじて小舟に乗って伊予に逃げ帰りまし。
 6月20日、伊予国警護使橘遠保によって純友は息子重太丸と一緒に殺害されました。
 7月7日、その首は朝廷に謙譲されました。ここに純友の乱は完全に鎮圧されたことになります。
東西の侍の乱を侍が鎮圧、次代の主役を予感
 この二つの事件は、相前後して起こりましたから、京都では二人が共謀して乱を起こし、将門が天皇に、純友が関白に、それぞれ就くのだ、と言う噂が広まったほどでした。
 比叡山には平将門と藤原純友が腰を掛け、都を見下ろしながら、語り合ったという岩があります。
 権力闘争に明け暮れた摂関時代、具体的な武力闘争事件には何も出来ない貴族社会の象徴的な状況が浮かび上がってきます。
 将門・純友の乱を鎮圧したのは武士でした。桓武平氏と清和源氏がいよいよ中央の政治の舞台に登場する時代がそこまでやってきました。

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