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エピソード

042_01

国風文化T(『和泉式部日記』)
 私の住んでいる相生市(兵庫県)にも和泉式部の伝説あります。全国各地でもあります。
 相生に残っている伝説を紹介します。和泉式部は娘小式部の養育に困り、守り本尊を絹に包んで捨て子をしました。絹の半分は和泉式部は後の証拠として持ちました。小式部を拾って育てたのだ、たまたま上京していた播磨の若狭野村(現相生市若狭野町)の長者五郎左衛門でした。
 和泉式部が上東門院藤原彰子に仕え、名声が上がるようになると、小式部のことが気になりました。ある時、上東門院のお供で播磨の書写山へ参詣に行きました。和泉式部は小式部を訪ね歩いて、若狭野村雨内に来た時、時雨に会いました。近くの栗の木の下で雨宿りをして、その時の気持ちを歌を詠むと、栗の枝が笠の形に垂れました。後にこの栗は「宿り木の栗」とか「雨宿りの栗」と言われました。
 その時の歌は「苔むしろ 敷島の道に 行きくれて 雨のうちにし 宿る木のかげ」というものでした。
 その晩は長者五郎左衛門の家で泊めてもらいました。この時小式部と再会しました。この時、小式部が詠んだ歌が「秋川の 瀬にすむ鮎の はらにこそ うるかといえる わたはありけれ」でした。
 現在、「雨宿りの栗」は那波得乗寺(相生市)に「和泉式部のしだれ栗」だと言われています。
 全国にある和泉式部伝説を探ってみました。まず和泉式部の実像に迫ります。
 誕生は974年とか、976年とか言われています。父は越前守大江雅致、母は越中守平保衡の娘と言われています。しかし、その誕生も北は北上市、南は宮崎まで伝説があります。誕生から神秘的な存在といえます。父の官職から「式部」、夫の橘道貞が和泉守であったことから「和泉式部」と言われるようになりました。
 最初の夫橘道貞との間に小式部内侍をもうけますが、夫の任地である和泉にはいかず、京都で弾正宮為尊親王(冷泉天皇第三皇子。母は藤原兼家の娘の藤原超子)と不倫の関係になります。このときの歌が「あらざらむ  この世のほかの 思い出に いまひとたびの 逢ふこともがな」です。高校時代の懐かしい歌です。当然古典の先生コテンコテンの怒られましたが…。しかし、為尊親王は和泉式部との恋が激しすぎたのは26歳で死んでしまいます。
 為尊親王が死んで1年も経たないのに、その同母弟で「帥宮」と呼ばれた敦道親王と不倫の関係になってしまいます。この時の歌が「ながむらむ 空をだに見ず 七夕の 忌まるばかりの わが身と思へば」です。岩波古典文学体系の『和泉式部日記』を物語的に読んで、初めて歌の意味が分かりました。断片的な歌を、受験勉強的にいくら解釈しても、理解できません。それはともかく、この敦道親王も27歳の若さで死んでしまいます。まさに魔性の女ということでしょうが、和泉式部には罪はありません。破滅的な恋の持ち主なのです。
 その後、一条天皇の中宮藤原彰子藤原道長の娘)に仕えたました。和泉式部はこの破滅的な恋を自覚したのか、丹後守藤原保昌と再婚し、今度は夫とともに任地に赴きました。
伝説の攪拌
 肥前の塩田郷に生まれた和泉式部が子供の頃、木綿を摘む手伝いをしていました。これを見た天皇の使いが「この綿は売るのか」と聞きました。和泉式部は即座に「君が望む その木の綿は 川瀬住む 鮎の腹にぞ 宿りぬるかな」と答えて、天皇の使いをびっくりさせたということです。木の綿と鮎のこのわた(腹わた)とかけていたのです。
 作家の中津攸子さんは、和泉式部は北上市和賀町の日高見国の王族の娘として生れ、日高見国を全国にPRしようと上京し、京都と岩手の北上との間を取り持ったと推測しています。(『和泉式部秘話』)
 しかし、この説に無理がなるのは和泉式部の伝説が京都と北上との間にだけあるのではなく、全国に散在していることです。岩手県北上市、京都府宮津市天橋立・京都市中京区、鳥取県鳥取市鹿野町、福島県白河市・表郷村・石川町・玉川村、和歌山県本宮市、高知県土佐清水市、兵庫県加古川市・姫路市・相生市、佐賀県塩田町・有明町・白石町、神奈川県足柄市、広島県尾道市、千葉県館山市、島根県浜田市・益田市・三隅町、宮崎県西都市・国富町・土原市、長野県諏訪市などです。
 民俗学を学んだ私の推論は以下の通りです。
 相生市に伝わる小式部の歌「秋川の 瀬にすむ鮎の はらにこそ うるかといえる わたはありけれ」と佐賀県塩田町に伝わる小式部の歌「が望む その木の綿は 川瀬住む 鮎の腹にぞ 宿りぬるかな」を比較すると、表現こそ違え、内容は同じです。
 私の子供のころTVのない時代です。富山の薬売りが来ては、いきなり薬を売るのではなく、母親にあちこちの楽しい話をしては安心感を与え、その後、置き薬の話になったことを記憶しています。私はこの話から、色々な情報を得ていました。この理論をあてはめると、聖(遊行しながら修行する僧)があちこち行き、「それは弘法大師に違いない」「恋多き和泉式部のことです」と言っては、布施を得ていました。地方人にとって自分の地が中央の有名人と関係があると教えられ、嫌な思いをする人はいません。これを貴種伝説といいます。つまり聖によって全国に伝播した貴種伝説の1つと言えます。
 相生の伝説については『郷土の歩み-相生-』(相生市教育委員会編著)を参考にしました。

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