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エピソード

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国風文化U(『更級日記』)
 『更級日記』は「東路の道の果てよりも、なほ奥つ方に生ひ出たる人、いかばかりかはあやしかりけむを…」で始まります。古典の中では印象の薄い作品です。私の印象が薄いのに、皆さんにうまくその「よさ」をお伝えできるか不安です。精一杯思い出しながら、書き進めます。
 『更級日記』の作者である菅原孝標の娘(当時女と書いてむすめと読んでいたが、ここでは現代風に娘とします)は1008年に生まれています。藤原道長の全盛時代です。
 彼女が10歳の時、父菅原孝標は上総介として任地の上総(今の千葉県)に赴きます。彼女も姉や継母上総大輔(『後拾遺集』にでてくる歌人)と共に同行します。文学の素養のある2人から彼女は「その物語、かの物語、光源氏のあるようなど、ところどころ語るを聞」いて育ちます。
 2人から聞くだけの物語では、物足りなく思った孝標の娘は、等身の薬師如来像を造って、「京にとくあげたまひて、物語の多くさぶらふなる、あるかぎり見せたまへ」(京に帰って、物語のあるだけ全てを見せてください)と祈りました。
 13歳の時、任を終えて京都に帰ることになりました。上総より京までの3ヶ月間の旅行記は、今の中学生が書ける内容ではありません。感受性の豊で、表現力の優れた少女だったことがわかります。
 しかし、33歳で結婚したということは、理屈屋で男性から見て女性的な魅力に欠けていたと思われます。知性や教養はあっても、和泉式部の情熱もなかったのではないでしょうか。
 今まで少しずつ、所々しか読めず、もどかしく思っていた『源氏物語』を、誰にも邪魔されず、几帳の内に閉じこもり、1の巻より読み進む気持ちは「后の位も何にかはせむ」(后の位を与えるといっても替えがたい)と書いています。
 彼女が50歳の時、夫の橘俊通は信濃守として任地に赴き、翌年亡くなりました。
 53歳の時、人の訪れもないある晩、甥が訪ねて来ました。その甥に対し、「月も出でて 闇にくれたる をばすてに 何とてこよひ たづね来つらむ」と詠みました。そして「わが心 慰めかねつ 更級や 姥捨山に 照る月を見て」と詠みました。この更級の彼女の日記の題名となりました。
同じ体験して、何も感じぬ人、感じても行動せぬ人、行動する人
 男女平等と言いますが、私の体験からすると、平等の内容が問題だと思います。高校時代は相対的に女子がリーダーシップを持っています。又、球技大会などで男子が決勝に進むと、女子の応援は総出でガンガンやります。逆に女子の決勝戦は男子の応援はまばらです。体育祭などで、リーダー的な女子から指示された男子は、歯医者に行くなどの理由で姿を消します。リーダーであっても、女子から命令的でなく「何々君お願い」と言われると、私も含め男子たるもの、単純なもので「豚も木に登る」気持ちになって、率先的に仕事をしたものです。
 菅原孝標の娘は賢いが、理屈屋で、夢想家だったのではないでしょうか。
 私にとって魅力のない女性かというとそうでもありません。私の家へパソコンを習いに色々な方が見えます。パソコンとデジカメとホームページソフトでこんなことが出来るとパソコンの画面上で見せます。何の反応もしない人は、高いパソコンを買っても、長続きしません。「すごい」と反応しても、デジカメを買うことのない人も、長続きしません。「すごい、教えて教えて!」と言って、デジカメを買い、ホームぺージソフトを買う人は違います。夫婦で149歳の人はビデオから葉書、A4の便りを出して多くの人の感動されています。75歳でホームページをアップした人も、多くの人にエネルギーを与え続けています。
 菅原孝標も娘は姉や継母から色々な物語を聞き、薬師如来像を造ってもらい、全ての物語を読むことを祈願しました。同じ体験をしても、彼女の場合は、行動する人だったという点で、積極的で、魅力的な女性だったといえます。

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