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エピソード

043_02

国文学U(『竹取物語』)
 日本中の誰もが知っている「かぐや姫」の原作が『竹取物語』です。「今は昔竹取の翁といふものありけり。野山にまじりて、竹をとりつゝ、萬の事につかひけり。名をば讃岐造麿となんいひける。その竹の中に、本光る竹ひとすぢありけり。怪しがりて寄りて見るに、筒の中ひかりたり。それを見れば、三寸ばかりなる人いと美しうて居たり。」が冒頭の文です。
 続けて、「この子いと大になりぬれば、名をば三室戸齋部秋田を呼びてつけさす。秋田なよ竹のかぐや姫とつけつ」とあり、これがタイトルになりました。
 たくさんの若者が言い寄りましたが、相手をしないので、だんだん言い寄る若者が減ってきました。
 「その中に猶いひけるは、色好といはるゝかぎり五人、思ひ止む時なく夜晝來けり。その名一人は石作皇子、一人は車持くらもち皇子、一人は右大臣阿倍御主人みうし、一人は大納言大伴御行、一人は中納言石上いそかみ麿呂、たゞこの人々なりけり」
 竹取の翁は、熱心な5人の若者のプロポーズに接して、かぐや姫に「この世の人は、男は女にあふことをす。女は男に合ふことをす」といって、孝行の心があるなら、結婚して欲しいと話します。
 かぐや姫は、それでは「深き御心をしらでは」結婚できないと言って、5人の若者に課題を課します。
「かぐや姫、石作皇子には、”天竺に佛の御み石の鉢といふものあり。それをとりて給へ”といふ。車持皇子には、”東ひんがしの海に蓬莱といふ山あンなり。それに白銀を根とし、黄金を莖とし、白玉を實としてたてる木あり。それ一枝折りて給はらん”といふ。今一人には、”唐土にある、火鼠の裘かはごろもを給へ”。大伴大納言には、”龍たつの首に五色に光る玉あり。それをとりて給へ”。石上中納言には”燕つばくらめのもたる子安貝一つとりて給へ”といふ。
 5人の若者が、課題に取り組み失敗する様が描かれます。
 やがて「春の初より、かぐや姫月のおもしろう出でたるを見て、常よりも物思ひたるさまなり。…月を見ていみじく泣き給ふ」。そこで心配した竹取の翁が理由を聞きました。
 すると、かぐや姫は「おのが身はこの國の人にもあらず、月の都の人なり。それを昔の契なりけるによりてなん、この世界にはまうで來りける。今は歸るべきになりにければ、この月の十五日に、かのもとの國より迎に人々まうでこんず。さらずまかりぬべければ、思し歎かんが悲しきことを、この春より思ひ歎き侍るなり」と答えました。 
 大勢の者が相談して、かぐや姫を守ることにしました。しかし、かぐや姫は「鎖し籠めて守り戰ふべきしたくみをしたりとも、あの國の人をえ戰はぬなり。弓矢して射られじ」といいます。
 ついに、月からの使者がやって来ました。「かゝる程に宵うちすぎて、子の時ばかりに、家のあたり晝のあかさにも過ぎて光りたり。望月のあかさを十合せたるばかりにて、ある人の毛の穴さへ見ゆるほどなり。大空より、人雲に乘りておりきて、地つちより五尺ばかりあがりたる程に立ち連ねたり。これを見て、内外うちとなる人の心ども、物におそはるゝやうにて、相戰はん心もなかりけり」
 そして、月から来た王は、竹取の翁に対し、「かぐや姫は、罪をつくり給へりければ、かく賤しきおのれが許にしばしおはしつるなり。罪のかぎりはてぬれば、かく迎ふるを、翁は泣き歎く、あたはぬことなり。はや返し奉れ」といいました。
 竹取の翁は、「かぐや姫は、重き病をし給へばえ出でおはしますまじ」と必死に抵抗しましたが、「立て籠めたる所の戸即たゞあきにあきぬ。格子どもゝ人はなくして開きぬ」。
 竹取の翁が「我をばいかにせよとて、棄てゝは昇り給ふぞ。具して率ておはせね」と泣き伏すので、かぐや姫は手紙を書くので、恋しいときには取り出して見て欲しいと泣きながら書いた手紙があります。
 それには、「この國に生れぬるとならば、歎かせ奉らぬ程まで侍るべきを、侍らで過ぎ別れぬること、返すがえす本意なくこそ覺え侍れ。脱ぎおく衣きぬをかたみと見給へ。月の出でたらん夜は見おこせ給へ。見すて奉りてまかる空よりもおちぬべき心ちす」とありました。
 こうして、かぐや姫は月に帰っていくという単純で、ロマンのある物語です。
 『源氏物語』には『竹取物語』は「物語の出で来はじめの祖」と書かれています。私も高校時代「かな物語のさきがけ」と教わりました。
民俗学的には羽衣伝説と求婚譚がルーツ
 『竹取物語』を民俗学的に考察すると、天から来て天に帰るという話があります。次に、求婚に難題を課すという話があります。
 『竹取物語』の作者は、この二つを巧みに組み合わせて、ストーリー化したものと思われます。
 貴族社会を風刺しているので、作者はそういう立場の人なのかもしれません。

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