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エピソード

043_04

国文学W(『源氏物語』)
 高校時代に読んだ古典で最も強烈な印象を受けたのが『源氏物語』です。ただ他の生徒と違って私がショックを受けたのは、文学性でもなく、物語性でもありません。冒頭の部分の描写です。
 「いずれの御時(どの帝の御代)にか。女御・更衣あまた(延喜の時代、皇后・中宮の次が女御で定員が5人、天皇の妻の最下位が更衣で定員はなんと19人)さぶらひ給ひけるなかに、いと、やむごとなき際にはあらぬが(実家の父の位が高く優れた身分ではないが)、すぐれて時めき給ふありけり」。いやーもう、天皇の妻が27人に膨れ上がっていたのです。
 「はじめより、”われは”と、思ひあがり給へる御かたがた、めざましき者におとしめそねみたまふ」(要点は「実家の家柄で、自分こそは帝の寵愛を得ようと自負している方々は、桐壺の更衣を気にくわない者として、軽蔑し憎しみました」)。「おなじ程、それより下揩フ更衣たちは、まして、安からず」(要点は
「桐壺の更衣と同じ大納言級の人、それより身分の低い更衣たちは気が気ではありませんでした」)
 その結果、病気になり、実家に帰ることが多くなりました。帝はそれを余計いとしく思い、人が非難するのもはばからず、気を使いました。上達部(三位以上の公卿)や上人(殿上人)らは面白くなく、「唐土にも、かゝる、事の起こりにこそ、世も乱れ悪しかりけれ」と(要点は「中国の楊貴妃のように1人の妃の偏愛が原因で、世も乱れ悪くなっていたのだ」)
 「あまたの御方がたを過ぎさせ給ひつゝ、ひまなき御前わたりに、人の御心をつみ盡くし給ふも、げに「ことわり」と見えたり」(要点は「桐壺から清涼殿に行くには、多くの女御・更衣の部屋の前を通る。又、帝がひっきりなしに桐壺に行った時も、多くの女御や更衣の部屋の前を通るので、桐壺の更衣は気にしたが、もっともなことである」)。
 まう上り給ふにも、あまりうちしきる折おりは、打橋・渡殿のこゝあしこの道に、あやしき業をしつゝ、御送り迎への人の衣の裾堪へがたう、まさなきことどもあり(要点は「桐壺の更衣が帝の所に行くことが再々の時は、中庭に出るための橋や渡り廊下のあちこちに、糞尿を撒き散らし、そのため侍女の衣の裾が臭って我慢できないなど、信じられないことがありました」)
 又、ある時は、えさらぬ馬道の戸をさしこめ、こなたかなた、心をあはせて、はしたなめ、煩はせと給ふ時もおほかり(要点は「また、ある時は清涼殿に行くにはどうしても通らないといけない廊下に雨戸を立てかけ、女御・更衣が皆んなで協力して、桐壺の更衣を辱め、困らせました」)。
 光源氏が天皇の正妻である藤壺に手を出して、子供を生ませ、その子が後に天皇になったり、天皇の寵愛を受ける内侍の六の君(右大臣の娘)に手を出したりとビックリの連続でした。しかし、この膨大な『源氏物語』の冒頭の部分の衝撃は、比較の仕様がないほど大きかった。当時の倫理観と今の倫理観は全く違うとはいえ、作者紫式部はなにが言いたかったのでしょうか。
原作を全5巻読破、第3巻後半で現代文と同じ感覚で読めた!
 「蝶よ花よ」と育てられた貴族の娘が帝の妻として、同じ家に部屋をあてがわれて住んでいる。しかも28人が同居している。皆さんは想像できますか。
 一夫多妻・妻妾同居といういびつな環境が生んだ嫉妬心が「蝶よ花よ」の娘の心を狂わせる。廊下に撒き散らされた糞尿を踏んで、その臭いで我慢できず部屋に引き返す。着飾った服が台無しで、こんな惨めな気持ちで恋人に会えるでしょうか。ライバル憎しで糞尿を撒き散らす人の気持ちを理解できますか。
 通り道を防ぐ。別な道を探すと、そこでも妨害される。今のいじめです。逃げ惑う姿を見て、やんやの喝采を送る人の気持ちを理解できますか。やり場のない不満をこういう形でしか発散できない、十二単を身にまとった貴族の娘の平安時代の立場が描かれています。
 岩波古典体系は『源氏物語』を全5巻で紹介しています。頭注がよく出来ているので、最初はそれを頼り便り読みすんでいくと、第3巻の後半からはほとんど頭注を見なくても読み進むことが出来ました。膨大な登場人物の性格描写はものの見事です。場面場面も映画を見るような迫力と鮮やかさがあります。今の視点からみると、ただれた、おどろおどろしい人間社会をこれほどまで丹念に描こうとして紫式部の心理がわかりません。受領層の貴族社会へのねたみ、羨望なのでしょうか。
 高校時代、文法から入る古典に不満を持っていました。長文を読んで、どうしても意味の解釈で文法が必要な時があります。文法を否定しませんが、ここでも入試制度の弊害がでてきています。
 長文を読んで、原作の楽しさ、魅力を知って欲しいです。

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