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エピソード

043_05

国文学X(『枕草子』)
 ご存知のように清少納言は本名ではありません。父の原元輔が少納言だったので、 「清少納言」と言われたといいます。ここでも岩波の古典体系から紹介します。
 なぜ『枕草子』というのでしょうか。
 「宮(一条天皇の中宮定子)の御前に、内の大臣(兄藤原伊周)のたてまつり給へりけるを、「これになにを書かまし。上(一条天皇)の御前には史記といふ書をなん書かせ給へる」などのたまはせしを、「枕にこそは侍らめ」と申ししかば、「さば、得てよ」とて賜はせたりしを、あやしきを、こよやなにやと(つまらぬことを何やかやと)、つきせず多かる紙を、書きつくさんとせしに、いとものおぼえぬ事ぞ多かるや(たくさんの紙に全部書き終えようとしたので、訳のわからないことも書いています)」
 歌の枕詞をかいたり、いつも枕元において大切にするという意味に解釈するのが一般的です。
 第一段は春夏秋冬を描いています。下手な解説はいりません。情景を脳裏に浮かべるだけで、その世界に入ってしまいます。ジョージ・ルーカス監督と同じく、日常性を見事に活写しています。
 「春はあけぼの。やうやうしろくなり行く、山ぎはすこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる」
 「夏はよる。月の頃はさらなり、やみもなほ、ほたるの多く飛びちがひたる。また、ただひとつふたつなど、ほのかにうちひかりて行くもをかし。雨など降るもをかし」
 「秋は夕暮。夕日のさして山のはいとちかうなりたるに、からすのねどころへ行くとて、みつよつ、ふたつみつなどどびいそぐさへあはれなり。まいて雁などのつらねたるが、いとちひさくみゆるはいとをかし。日入りはてて、風の音むしのねなど、はたいふべきにあらず」
 「冬はつとめて。雪の降りたるはいふべきにもあらず、霜のいとしろきも、またさらでもいと寒きに、火などいそぎおこして、炭もてわたるもいとつきづきし。晝になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火もしろき灰がちになりてわろし」
 第二四段は清少納言の人生観が伺えて面白い。
 「おひさきなく、まめやかに、えせざいはひ(似而非なる幸福)など見てゐたらん人は、いぶせくあなづらはしく思ひやられて、なほさりぬべからん人のむすめなどは、さしまじらはせ、世のありさまも見せはさまほしう…」(要点は「将来の希望もなく、ただきまじめに、夫の出世などを願っているような女性は、気詰まりで、軽蔑したい感じです。相当な家の娘は宮仕えさせて、世間の様子も十分見せてやりたい」)
 第二五段が「すさまじく」、興ざめな話です。
 「すさまじきもの 晝ほゆる犬、春の網代。三四月の紅梅の衣。牛死にたる牛飼。ちご亡くなりたる産屋。火おこさぬ炭櫃、地火櫨。博士のうちつづき女子生ませたる。方たがへにいきたるに、あるじせぬ所。まいて節分などはいとすさまじ」。興ざめなものとして、清少納言は色々上げています。網代は冬の漁に使う物です。紅梅の下着は11月から2月に着ます。博士は世襲で女子には資格がない。そこに続けて女子が生まれたら、お祝いをしていいものかどうか。わざわざ方違をして幸福の方角から行ったのに、饗応しない家。いまに通ずる部分もあります。
 「人の國よりおこせたるふみの物なき。京のをもさこそ思ふらめ、されどそれかはゆかしきことどもをも書きあつめ、世にある事などをもきけばいとよし」(要点は「地方から送ってくる手紙に贈り物がないのは興ざめです。こちらからの手紙についておも同じと思う人もいるが、贈り物の代わりに都の興ある様を送っている」)
 「親の晝寝したるほどは、より所なくすさまじうぞあるかし」(要点は「いい歳をした親の昼寝は興ざめの果てです」)。多分、清少納言の体験ではないでしょうか。父清原元輔のことをでしょう。
 第二八段も納得のいくお説です。
 「にくきもの いそぐ事あるおりにきてながごとするまらうど。あなづりやすき人ならば、”後に”とてもやりつべけれど、さすがにこころはづかしき人、いとにくくむつかし」(要点は「困ったことは、急いでいる時に長話をする人。身分の高い人には”後で”ということも出来ない」)
 「蚤もいとにくし。衣のしたにおどりありきてもたぐるやうにする」(要点は「蚤も困ったものです。着物の下をはねまわるので、つい裾を待ち上げてしまう」)。やや「色気」のある描写です。
 第七五段は思わず笑ってしまします。「ありがたき」とは「有り難い」(めったにない)という意味です。めったにないから、うれしくて「ありがたい」というのです。原文で味わってください。
 「ありがたきもの 舅にほめらるる婿。また、姑に思はるる嫁の君。…主をそしらぬ従者。…契りふかくて語らふ人の、すえまでなかよき人かたし」
 最終の第三一九段です。
 「この草子、目に見え心に思ふ事を、人やは見んとすると思ひて、つれづれなる里居のほどに書き集めたるを、あいなう、人のためにびんなきいひすぐしもしつべき所々もあれば、よう隠し置きたりと思ひしを、心よりほかにもいこそ漏り出でにけれ」(要点は「この草子は、見たり感じたことを、人に見せない前提で、実家に帰っていた時に、書いたものを集めたものです。人によってはよくない事も書いているので、隠していたのですが、心ならずも皆に知れてしまいました」) 
 「おほかたこれは、世の中にをかしきこと、人のめでたしなど思ふべき、なほ選り出でて、歌などをも、木・草・鳥・墨をも、いひ出したらばこそ、「思ふほどよりはわろし。心見えなり」とそしられめ、ただ心ひとつに、おのづからか思ふ事を、たはぶれに書きつけたれば、ものに立ちまじり、人なみなみなるべき耳をも聞くべきものかはと思ひしに、「はづかしき」 なんどもぞ、見る人はし給ふなれば、いとあやしうあるや。げに、そもことわり、人のにくむをよしといひ、ほむるをもあしというふ人は、心のほどこそおしはからるれ。ただ、人に見えけんぞねたき」(要点は「おかしいと思うこと。素晴らしいと思うこと選び出したのですが、それを見た人は”思ったほどではないとか、衒うというところか”悪口を言われます。私はただ自分一人の心に浮かぶことを、戯れ半分に書き付けたので、他の作品と比較して、批評など聞けるわけはないと思ったのに、恥ずかしいと思うほど”すばらしい”などと批評されています。これは非常に不思議なことですが、なるほどそれも道理、人がきらうことをよいと言い、ほめることも悪いという自分のような人間は、それで心底を見すかされているようで す。ただ、人に見られたことだけが悔しい」)
清少納言と紫式部
 古典の本などを読むと、清少納言は斜めから人生を見ている。それは仕えていた中宮定子の悲劇と付き合ったからだという説明が多くありました。他方紫式部は大胆で、大らかである。それは仕えていた中宮彰子とその父藤原道長の全盛時代に付き合ったからという評価も多かったです。清少納言の日常生活を大切にする考えは、とても好きです。今に通ずる人間の心理を巧みに描写しています。 
 『紫式部日記』で紫式部はライバル清少納言の晩年を「そのあだになりぬる人のはてはいかでかはよく侍らん」と書いている。紫式部も気になっていたのでしょう。勝者が敗者を思いやる記述でなく、「私と番を張ろうとしたが、その後はわからない」と蔑む立場をとっています。

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