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エピソード

044_01

浄土信仰T(仏像の覚え方-浄土教と阿弥陀如来)
 子供の頃、こんな話を聞いたことがあります。
 昔の話です。田植えの時、少女が昼食にとおにぎりを運んできました。村の男たちが手を休めて、おにぎりを食べようとすると、塩が載って、一番美味しいおにぎりの先端部分がどれもちぎったようになくなっていました。この飯炊き小女がつまみ食いをしたに違いないと思った村の男たちは、少女をこらしめるために、田んぼの真ん中にあった松の木に吊るしました。
 しばらくすると、西の方から紫色の雲が降りてきて松の木を覆いました。そして紫色の雲は西の空へと帰っていきました。を村の男たちは吊るしていた少女のことを思い出し、飛んでいって見ると、少女はいませんでした。
 田植えが終わり、家に向かって帰っていたときです。今まで気にもしなかったお地蔵さんの前で足がピタリととまりました。何気なくお地蔵さんを見ると、どのお地蔵さんの口元に米粒がついていました。村の男たちは少女がおにぎりをお地蔵さんにやっていたことに気がつきました。そして西方にある極楽浄土に迎えられたことを知り、それからはお地蔵さんにお供えを欠かすことがなかったと言います。
 子供の頃の話なので、少し違っているかも知れません。多分のこんな話だったと思います。
 この話を教師になって思い出しました。この体験話をペーパー上の知識にあてはめて、考えてみました。時は平安時代です。摂関時代の全盛時代とはいえ、中央政治は公私が混乱していました。その結果、『羅生門』のように盗賊が横行し、平將門の乱藤原純友の乱が頻発し、宗教的には1052年には末法の世になると信じられていました。
 つまりこの世(現世)に絶望を感じた人々は来世に救いを求めたのです。
 10世紀半ばの空也は「南無阿弥陀仏」ととなえると、その1語1語が阿弥陀如来の姿になったと言います。
 11世紀初めの源信は『往生要集』を書いて、南無阿弥陀仏と唱えた人の極楽往生話を伝えました。
 全国を遊行する高野聖によって極楽浄土や往生話が伝えられ、私たちの田舎にも伝承として残っていたのです。
 五十三番目の世自在王如来の時、インド王が出家して法蔵となり、世自在王如来に「苦しみにあえぐ人々をことごとく救いたい。仏教の教えを全て教えて欲しい」と懇願しました。そこで如来は二百十億もの仏の世界を目の前に現しました。法蔵は既存の仏の世界の長所と短所を検討し、五劫かかって思惟しました。一劫とは一由旬(14.5キロ)立方の鉄の城にケシの実を満たし、百年に一粒ずつ取り去って、入れ物が漢になっても終わらないほどの長さです。
 天文学的な時間の後、法蔵は四十八の大願を達成して仏となりました。それが阿弥陀如来です。
 四十八願のうち十八願には「念仏を十回唱えても極楽浄土に往生することができない人がいたなら、私は仏になることを止めよう」とあり、法然親鸞が重視しました。これが浄土教のルーツと言えます。
 阿弥陀如来像については浄土教芸術で取り上げます。
仏教と既成宗教との差は何?
 私の宗教はなくて、私の家の宗教は西本願寺系の浄土真宗です。浄土真宗の祖親鸞の教えとも違います。v如の教えが主体です。
 釈迦の教え(仏教)は大乗仏教となり、五十四番目の阿弥陀如来となり、その内の十八願となり、法然から親鸞となり、v如となって、今に至っていることになります。宇宙の壮大な教えが、換骨奪胎されてきた様がよく分かりました。それはそれで歴史の産物といえるでしょう。
 あちこちの法事に参加します。お坊さんから説教があります。頭を垂れて聞いています。しかし、納得したり、理解したりしてはいません。その証拠にお坊さんが帰った後、誰かれとなく「最近のお寺さんは…」となります。
 一度も「何か質問や疑問、困っていることはないですか」と聞かれたことがない。質問されたら答えられなかったり、困ることがあるのでしょうか。衆生の生の声を正面から受け止め、疑問に答えていくことで共に信心が深まっていくと思うのですが…。如何でしょうか?
 今回は背景・教義を扱う関係で以下の書物を参考にしました。先人の労苦に感謝します。
ひろさちや原作『仏像のはなし』(すずき出版)
田中義恭・星山晋也編著『目で見る仏像-如来-』(東京美術)
瓜生 中著『仏像がよくわかる本』(PHP文庫)
西村公朝著『仏像の声』(新潮文庫)

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