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エピソード

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浄土信仰V(地獄・極楽の思想)
 学生時代、調査旅行をしていた時、あるお寺の入り口に地下室があり、そこをくぐると、壁面に地獄図がありました。説教などを聞いて出口に進むと、地下室があり、そこを抜けていくと、壁面に極楽の絵がありました。最近かずら橋で有名な徳島県の祖谷地方に行った時にも、地獄極楽が同居していました。
 イタコで有名な青森県の下北半島の恐山にも地獄(硫黄が煙吹く)の奥に極楽(池と緑の木々)がありました。大阪市平野区の全興寺では今も参詣者のために地獄・極楽図を拝観できます。
 恵心僧都源信は『往生要集』で地獄を細かく描写し、六道の苦を説いています。この六道輪廻を断ち切るには解脱という方法があります。源信は念仏による極楽往生の方法も示しています。
 世界は6つの道からなっています。まず、地獄道から説明します。地獄の最上層から順に、等活地獄→黒縄地獄→衆合地獄→叫喚地獄→大叫喚地獄→焦熱地獄→最下層が阿鼻地獄となっています。下にへ行けば行くほど、苦痛は10倍増しに激しくなります。阿鼻地獄だけは、1000倍も苦痛が増します。この苦痛は、毎日毎日繰り返されます。
@等活地獄は生前殺生を行ったものが堕ちる地獄です。ここでの罰は、相手を殺すまで喧嘩をするところであり、自分の意志に関係なく殺し続けます。
A黒縄地獄は生前、盗みを働いたものが堕ちる地獄です。ここでの罪は、斧や、鋸でからだを升目通り切り裂かれます。
B衆合地獄は殺人や盗みのほかに、淫乱の罪がくわった者が堕ちるところです。ここので罪は、刀葉林獄卒に追われた罪人がこの木の下に来ると、樹上に絶世の美女がおり、罪人に向かって「ここに来て私を抱いて」と誘惑します。喜んだ罪人は争って木を上っていきます。しかし、木の葉は鋭い刃物となっており罪人の身体を切り刻みます。
C叫喚地獄は殺生の罪、盗みの罪、邪淫の罪、さらに飲酒の罪を犯した者が堕ちるところです。ここでの罪は、金ばさみで口をこじ開けられ、熱でドロドロに溶けた銅を流し込まれます。刑期は4000叫喚地獄年です。都率天の寿命は4000歳ですが、都率天の1日の長さは人間の世界の400年にあたります。このように長い都率天の寿命も、叫喚地獄の1日にしかなりません。それくらい長い年を4000年も過ごさなければなりません。
 ここにはそのほか小地獄が16もあります。その1つが 火末虫といいます。むかしは酒を売るのに水で薄めて儲けた者が堕ちるところです。体中から虫がはい出し、皮膚も肉も骨も髄まで食い裂きます。もう1つが雲火霧といいます。酒に酔わせて相手を泥酔させ、あざけりもてあそび、辱めた者が堕ちるところです。獄卒が罪人をとらえて業火の中に追い込むと、罪人の全身は一瞬にしてなくなります。業火の中から引き出すと、また生き返ります。これを果てしなく繰り返します。
D大叫喚地獄は、うそをついた者が堕ちるところです。ここでの罪は、罪人の舌を、鉄の釘で突き通したり、鉄ばさみで引き抜くといった罰を受けます。
E焦熱地獄は、邪見によって楽行を多作し、他人を偽った者が堕ちるところです。ここでの罪は、豆粒の大きさでも地球を焼き尽くすほどの業火で熱した鉄の棒でたたかれ、口から肛門まで鉄串で突き通されたうえ、火であぶり焼かれます。その後、広さ2000キロ四方、高さ5000キロという広大な火の海に突き落とされます。
10 F阿鼻地獄は、仏教で五戒をすべて破った極悪人が堕ちるところです。ここでの罪は、これ以上の苦痛はありません。一瞬たりとも攻めの手が休ますことのなく、死んでも生き返させて罰が続きます。
11  六道の内の餓鬼道を説明します。ここは、物おしみをし、貪り、そねみ、ねたんだ者が鬼となって堕ちるとろこです。餓鬼の世界は2つあり、1つは地下7200キロのところにあるの閻魔王の国です。もう1つは人間界と天界の間にあります。餓鬼となった者は人間界の1ヶ月を1日として500年間、ここで様々な苦痛を受けます。餓鬼道には様々な鬼がいます。
@鐫身餓鬼。名誉や利益を得ようと不浄な説を唱えた者が堕ちるところです。人間の倍の身長があるが顔も目もなく、色は黒雲のように黒く、涙を雨のように流し、食を求めて走り回っています。
A食水餓鬼。酒に水を加えて売るなど不当に利益を貪った者が堕ちるところです。長い髪が顔におおいかぶさっていて何も見えず、河を渡る人の足から落ちるしずくや、亡くなった人や父母に供えられた水などをわずかに飲んで生命をつなぎます。自分から水をくんで飲もうとすると、水を守る鬼たちが杖でぶって飲めないようにしています。
Bケ望餓鬼。人が苦労をして得たものを、だまし取った者が堕ちるところです。この世の人が亡くなった父母の追善に供えものをした時だけ、その供えものを食べることができます。
Cわが子を食う餓鬼。昼夜におのおの5人の子供を生みますが、飢えのため、生むたびにその子を食べてしまいます。それでも飢えの苦しみから逃れることができません。
D自分の脳味噌を食う餓鬼。食べ物を何一つ食べることができないので、自分の頭を割って、脳味噌を取り出して食べます。
E飛んで火にいる蛾を食う餓鬼。口から火を出して、寄ってくる蛾をとらえて食べます。
Fスカトロな餓鬼。人の糞や涙や膿みや血や、皿に洗い残した食べ物だけを食べます。
G食いたくても食えない餓鬼。口が針のように細く、腹が山のようにふくれているので、食べ物を前にしながら、どうしても食べることができません。
12  六道の内の畜生道について説明します。畜生道は地獄、餓鬼と合わせて三悪道ともよばれています。
 人間であった時、愚痴で恥知らずで、他人の施しを受けるばかりで償いをしなかった者が堕ちるところです。
 畜生の住まいの中心は海中ですが、人や天と交わって生活していることも多いです。畜生の種類は三十四億におよぶと言われていますが、大別すると鳥類・獣類・虫類になります。
 畜生は常に弱肉強食の争いを続け、昼も夜も恐怖に心が休まることはありません。水中に住む畜生は漁師に、陸に住む畜生は猟師に捕らえられ殺されます。馬や牛は、鼻や首をつながれて、重い荷物を背負わされ、鞭で打たれます。
13  六道の内の阿修羅道の説明をします。阿修羅とはアスラのことで、戦闘を好む鬼神のことです。
 争い事の好きな者や、自ら争いを起こして命を落とした者が堕ちるところです。
 天界に住む帝釈天とつねに交戦しています。阿修羅の手下となって日々争いに明け暮れ、その争いには必ず負け、戦いによって身体を切り裂かれます。
14  六道の内の人道について説明します。人間界には、3つの様相があります。
@不浄の相。人間の体は三百六十の骨、九百の肉片、九百の筋などでできており、腹の中には五臓六腑と呼ばれる内蔵や腸がぎっしり詰まっています。そして、どのように上等な食べ物を食べても、体内で一夜たてば不浄となります。その糞の臭いのように、老いも若きも、いかに美しく飾ろうとも、人の体は不浄なのです。まして、死後、墓地に捨てられ七日もたてばその体はふくれあがり。野獣に食われ蛆がむらがり、ついに白骨となり、年月を経て土に還ります。人間の体は始めから終わりまで不浄なのです。絶世の美女とて同じこと、死んで野に捨てられれば、その身は腐乱し、鳥獣の餌食となり、蛆におおわれ、白骨となり土に還ります。
A苦相。男も女も、この世に一度生を受け、外気に触れるとともに、はげしい苦悩を受けます。成長した後も、体内には四百四病といわれるような、全身さまざまの病を宿し、体外には罪によって捕らえられ責められたり、寒さ熱さ、飢え渇き、あるいは自然の暴威など、さまざまな苦悩が迫ります。これを四苦八苦といいます。四苦とは生・老・病・死を、八苦は四苦に愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五盛陰苦を加えたものです。
B無常の相。人は誰もどんな人も必ず死にます。一日が過ぎるごとに生きる日数が減っていくさまは、乏しい水に浮かぶ楽しみもない魚や、屠殺場へ一歩一歩死に近づく牛の歩にも似ている。無常の死神は、権力のあるなし頭のよしあしに関係なく、必ず迫ってきます。
15  六道の内の天道の説明をします。天道は天人の世界で、人間の世界の人道より楽多く苦の少ない世界です。欲界、色界、無色界の3つに分かれます。
@欲界。快楽極まりないという利天でも、天寿が尽きる時には、天人に五衰の相が現れます。1つには華の髪飾りがしおれ、2つには羽衣が埃や垢で汚れ、3つにはわきの下に汗が流れ、4つには眼がくらみ、5つには歓楽の場所であったこれまでの住みかをも楽しまなくなります。この五衰の相が現れると、天女や一族の者は、その天人を雑草のように見捨てて、遠ざかってしまいます。歓楽を極めた後だけに、その苦しみは地獄の苦しみより大きいといいます。
A色界無色界には五衰の相はありませんが、ついには天を去らねばならぬ苦しみがあります。天界最上の天である悲想天でさえも、地獄の底の阿鼻地獄に堕ちないという保証はないのです。
16  日本では死後の世界を六道といい、墓地を六道原というところがあります。京都東山の鳥辺野葬場の入口も六道の嶋と呼んでいます。六道原の入口や六道の嶋には地蔵菩薩や六地蔵がまつられています。これは地蔵を六道全部の救済者とする考えからです。また死者の頭陀袋に入れる六文銭を六道銭といい、三途の川の渡賃などというのも、すべて死後の世界を六道とするからです。
死ねば人間は仏になる、なのに、かように多様な地獄が想像されるのは?
 お寺さんから地獄・極楽の話は聞いたことがあります。餓鬼や畜生の話も聞いたことがあります。私の不勉強で、それらがなかなか1本に繋がりませんでした。今回は断片的な知識をもとにまとめてみることにしました。
 大学時代の世話になった五来 重先生の話や、山辺習学著『地獄の話』、色々なホームページを参考にしました。ありがとうございました。
 御釈迦さんは人間は死後すべて仏になるといっているし、空海は自分が仏と思ったときが仏だというし、最澄も人間は生まれながらにして仏性を持っていると言っています。なのに、地獄や極楽の話がこうも見事に想像されるのか、不思議です。

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