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エピソード

045_01

国風美術(仏像の覚え方-阿弥陀如来像)
 阿弥陀如来西方極楽浄土の教主です。梵語のアミは量ることのできない(無量)と言う意味です。ターバは光、ターニスは寿命です。そこで、アミターバは無量光如来(如来の光は、十方を照らしつくす)、アミターニスは無量寿如来(如来の命は無限である)となります。
 阿弥陀如来の住む極楽浄土は西方十万億刹の彼方にあり、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩以下を従え、今も衆生のために説法をしています。
 阿弥陀の国である極楽に往生したいと願う人を阿弥陀仏は迎えに来てくれますが、迎えに来る仕方に九通り(九品)あり、それを九品来迎と言います。上品・中品・下品と上生・中生・下生を組み合わせて九品とし、これは死者の生前の功徳によって定められています。両方の親指と正対する他の指の合わせ、胡坐の上の膝の上におきます。両方とも親指と人差し指なら上品上生となり、両方とも親指と小指なら下品下生となります。
 上品では阿弥陀は観音・勢至の両菩薩以下多くの聖衆を引き連れ、音楽を奏しながら来迎してきます。中品上生では阿弥陀()と比丘来迎します。中品下生では阿弥陀如来のみが来迎します。下品下生では金の蓮華が現れ、そこに乗って往生し、多年を経てようやく観音・勢至の両菩薩の説法ができるとなっています。
 阿弥陀五仏とは、中尊の阿弥陀仏と観音菩薩・勢至菩薩、地蔵菩薩竜樹菩薩の4菩薩をいいます。阿弥陀二十五菩薩では、ほとんどの菩薩が登場します。
 時代が下るにしたがって、「早や来迎」が期待されました。腰をかがめて上体をやや前に倒した立像や、足元には白雲を描いたものが出てきます。
 鎌倉時代になると、阿弥陀三尊が山の向こう側に半分姿を現し、さらには阿弥陀仏は山の向こう側にいるが、観音・勢至の両菩薩はすでに山を越しています。これらを山越阿弥陀図と言います。阿弥陀如来ら聖衆が乗った雲が死を直前に控えた人の家の中まで入っている絵もあります。
より現世志向の阿弥陀信仰
 私が見た聖(阿弥陀仏)衆(その他の眷属)来迎図は「傑作」で思わず、人間のよく深さを知らされた1枚です。死者が迎えの蓮華台の乗せられて、聖衆と共に栖鳳の極楽浄土へ旅立っていく姿が描かれていました。寺の説明では「帰り来迎」となっていました。
 権力を「望月の欠けたることもなく」使ってきた藤原道長でさえ、死の恐怖から逃れるため、御堂の阿弥陀如来像の手から糸を引いてきて、自分の手に巻きつけたといいます。
 生きとし生けるものは互助するという仏教精神が、誰よりも早く極楽浄土に行きたいという本能的欲望に堕しています。また、人間は本質的に死が怖いのです。私には笑えないエピソードでした。
 今回は背景・教義を扱う関係で以下の書物を参考にしました。先人の労苦に感謝します。
ひろさちや原作『仏像のはなし』(すずき出版)
田中義恭・星山晋也編著『目で見る仏像-如来-』(東京美術)
瓜生 中著『仏像がよくわかる本』(PHP文庫)
西村公朝著『仏像の声』(新潮文庫)

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