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エピソード

047_01

寄進地系荘園の発達を自分の言葉で(T)
 私の歴史観は、以前もお話しましたが、「自分ひとりの食料を生産していた人が2人分生産するとどうなるか」という質問から始まります。2人が4人分生産するという人もいますが、私はもう1人の人に、手工業をしてほしいと思います。彼が作った鍬や鎌で、より生産を上げられるからです。つまり、歴史は働く人の創意工夫や情熱によって支えられていると思っています。
 しかし、彼らは「何年に、どこで、何をした」という記録を残していません。だから、歴史として説明するのに、とても苦労します。自分が分からないのに、相手が分かるはずはない。経済史はたどたどしくてもいい、ともかく自分の言葉で語ろう。そう思い、それを実行してきた36年間でもあります。
 ここで取り上げるテーマは荘園の発達です。
 前回のおさらいです。律令制の税制が人的資源に課税するとなっていたので、百姓は税金逃れ対策として、偽籍を考えました。そこで政府は税の請負制に転換しました。国司はこの請負制度を自分の支配下にも応用しました。税を請け負った有力農民を「」、徴税単位の土地を「」といいます。こうして初期荘園が誕生します。課税対象が人的資源から土地資源へと変化していったのです。
 8〜9世紀に誕生した初期荘園(自墾地系荘園または墾田地系荘園)は国郡制に依拠していたので、その多くは10世紀までには姿を消しました。
 10世紀後半になると、地方の有力者が、残された荒地を創意工夫や情熱をもって開墾していきました。彼らは後に開発領主と中央から呼ばれます。
 当時の開墾地は輸租田でしたから、国司は当然税を課します。しかし、進取の気性に富んだ有力者は、国司を任命した中央の貴族・寺社に寄進します。税金逃れの名目的なものです。中央の貴族・寺社といっても地方の有力者には道長や東大寺のような知り合いはいません。国司と同レベルかもしれません。寄進された中央の貴族・寺社はさらに上の皇族や摂関家の大貴族に寄進します。勿論名目的にです。最初に寄進された貴族・寺社を「領家」といい、次に寄進された皇族・摂関家の大貴族を「本家」といいます。
 領家・本家に関係なく、荘園の実質的支配権を有する者本所といいます。
 開発領主は自分で開墾した実質支配権を維持しました。彼らは自墾地の管理者(荘官)として、中央からは下司・預所・公文・荘司・地頭などと呼ばれました。こうして荘園を寄進地系荘園といいます。
 寄進地系荘園のことがすべて出てくる史料があります。皆さんもご存知の鹿子木の荘園です。開発領主沙弥寿妙です。その子孫の預所職中原高方領家藤原実政に400石寄進しています。その実政の子孫願西本家高陽院内親王鳥羽天皇の皇女)に200石寄進しています。領家が200石ネコババしていることが分かって面白い。


鳥羽天皇の皇女 御室仁和寺
高陽院内親王
1140年
(200石)

太宰大弐 …→ 実政の曾孫
藤原実政 願西(藤原隆通)
1086年
(400石)

開発領主 寿妙の孫
沙弥寿妙 …→ 中原高方
地方の有力者のアイデア、エネルギー、智恵はすばらしい
 地方の有力者に視点を当てて見ると色々なことが分かります。有力者であるためには、常に新しいアイデア(創意工夫)をもち、それを実現するエネルギー(情熱)を持っています。そして独立心が強く、それを維持するためには、新しい方法を見つける。
 権力者と地方の有力者との駆け引きが面白い。歴史はこの駆け引きの歴史なのかもしれない。
 最近(この記事を書いているのが2004年7月)はパフォーマンス権力者に幻惑されて、この駆け引きが見られないのが残念といえば、残念です。ベンチャー企業主たるもの、政府に「おんぶに抱っこ」というのもいいですが、アイデアとエネルギーを駆使し、若者を味方につけ、投票率向上に励み、その実績を元に駆け引きをやってもらいたいものです。

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