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エピソード

049_01

清和源氏の棟梁化T(平忠常の乱)
 平将門の乱の関東の情勢は、2つの平氏の対立が露呈していました。平高望の長子が平国香で、その子平貞盛が將門の乱を平定しました。次子が平良将で、その子が平將門です。三子が平良文で、その子が平忠頼で、忠頼の子が平忠常です。貞盛の子孫は、その後貴族と主従関係を結んだりして、基盤を強化していました。
 良文の子孫は貞盛の子孫をライバル視していました。
 987(永延元)年、兄平貞盛とともに将門の乱で活躍した平繁盛が、延暦寺に書経を奉納しようとした時、良文の子である忠頼・平忠光兄弟がこれを妨げました。訴えを受けた政府の取調べに、忠頼らは「旧敵を駆逐するため」と反論したといいます。
 1003(長保5)年、平繁盛の孫である平維良は、下総の国府を焼き討ちしました。追討使が派遣され、維良は越後に逃亡しました。不思議な事に、この事件は藤原道長の主導により不問にふされ、その後、平維良は鎮守府将軍になっています。この事件によっても、貞盛の子孫が経営してきた上総国の基盤は維持されました。
 1028(長元元)年、上総介平忠常は国司の官物を涼め取っていましたが、それがエスカレートして国衙を襲い、安房守平惟忠を焼き殺す大事件に発展しました。中央政府は、平忠常追討の人選を行い、検非違使右衛門尉平直方(貞盛の曾孫)と、同じく中原成道を追討使に任命しました。この頃も未だ平氏の地盤は平氏が継ぐというのが政府の方針でした。 貴族的は2人は方違をしたりして、出発が遅れ、やっと追討使は坂東に下りました。しかし、年内には忠常を屈服させることが出来ませんでした。
 1029(長元2)年、東海・東山・北陸道にも忠常追討の官符を下し、追討軍の援軍としました。しかし、大椎城(千葉県千葉市)を本拠とする忠常の勢力は衰えを見せません。そこで、年末には戦果がないとして、追討使副長官中原成道を解任しました。 
 1030(長元3)年3月、後任の安房守藤原光業が国務を放棄し京に逃げ帰ってきました。忠常の叛乱は房総3国にまで拡大しました。安房守の後任の後任に平正輔が選ばれました。
 9月、追討使長官平直方も解任しました。新しく甲斐守源頼信に追討使を命じました。頼信が64歳という高齢にも関わらず任命されたのは、以前、上総・常陸介として任地の赴いたことがあり、地理にも明るかったことが指摘されます。『今昔物語集』ではその当時頼信と忠常は主従の関係のあったと書いています。政府は、関東における平氏の基盤を奪う決定をしたことになります。 
 1031(長元4)年4月、源頼信が甲斐から房総に出発すると聞いた忠常は、頼信の威光を恐れて、出家して常安と名乗り、子2人を連れて降伏したのです。
 6月、忠常は頼信に従って上洛の途中病にかかり、美濃国野上で亡くなりました。頼信は忠常の首だけを持って凱旋しました。忠常はさらし首にされましたが、その子平常将平常近は許されました。後、常将は千葉氏の祖となったと言います。
 1032(長元5)年、頼信はその功によってやっと美濃守に任命されました。
  平忠常の乱の結果、平氏の関東での基盤を失いました。逆に源氏は関東への進出の足がかりを得ました。源頼信は源満仲の3男でしたが、源氏の棟梁としての足場も確保しました。
貴族的な平直方と武士的な源頼信
 平忠常の乱の平定を任された平直方は出発に当って、当時貴族の風習であった方違をして、出発の時期を遅らせてしまいました。
 兄源頼光(鬼退治で著名)が仕えていた藤原道兼が兄関白藤原道隆(中宮定子の父)と対立しているのを聞いた、源頼信は「関白道隆」を殺そうとして、兄頼光にいさめられ思いとどまったというほどの豪傑です。頼光でさえ頼信の抑えは大変だったようです。
 平忠常も地方では英雄だったでしょうが、頼信の名を聞いただけで、戦う意欲を失ったといいます。貴族の時代から武士の時代がそこまで来ているとことが分かります。武士のみが、気がついていないのです。このころはそんな時代でした。
桓武天皇 国香 貞盛 維衡 正度 正衡
   ‖ 惟将 惟時 直方
   ‖ 繁盛 維幹
 ‖━ 葛原親王 高見王 平高望 良将 將門 兼忠 維良
多治比真宗 良文 忠頼 将恒
忠光 忠常 常将 (千葉氏)
棟貞皇女 常近
  ‖━ 貞純親王 源経基 源満仲 頼信 頼義 義家 義親 為義
清和天皇 頼光 義国 義重
義康

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