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エピソード

049_02

清和源氏の棟梁化U(前九年の役)
 弘仁の頃、陸奥は志波城まで朝廷の支配下に組み入れられました。その後は、その酋長(俘囚長)による間接統治のかたちをとっておりました。安倍氏は、安倍頼良(のちの安倍頼時)の祖父安倍忠頼の時に東夷の酋長に任じられております。朝廷の威力が衰えてからは、安倍氏の勢力は絶大となりました。奧六郡(胆沢、江刺、和賀、紫波、稗貫、岩手)の郡司を兼任していたのが安倍氏です。
 1050(永承5)年、国司として多賀城に赴任してきた藤原登任は、「賦貢しない」とか「傭役を果たさない」など理由を付けて安倍氏征討を要請しました。これを受けて朝廷は、秋田城介平繁成にも討伐の応援に出向くように命令します。
 1051(永承6)年11月、出羽(秋田)の平繁成2000の兵隊と藤原登任の3000の兵隊が合流して、鬼切部で安倍頼良の俘囚軍と衝突しました。この戦いで征討軍が大敗し、藤原登任は官位を取り上げられたあとは出家しています。
 1052(永承7)年3月、関白藤原頼通の妹の上東門院藤原彰子が病気になって、その病気平癒祈願のために全国に大赦の布告が出ました。
 5月、安倍頼良は大赦を受け入れて恭順し、名前も頼良から安倍頼時に変えました。
 1053(天喜元)年、源頼義陸奥守兼鎮守府将軍に任じられました。源氏の武将藤原経清と安倍頼時の娘との結婚もあり、奥州に平和が戻りました。
 1056(天喜4)年、源頼義の4年間の任期の終わり頃、安倍頼時は馬や黄金を贈りました。源頼義は巡検も終わって、阿久利河の辺に野営しているとき、陸奥権守藤原説貞の子藤原光貞兄弟の野営が襲撃されました。光貞は「頼時の息子安倍貞任が私の妹を妾にしたがっていました。私が断ったので、貞任はそれを恨んでいました。それで貞任が夜襲したのだ」と断言します。
 源頼義は大いに怒り、一方的に貞任を罰しようとしました。貞任の父安倍頼時はこれを聞いて、「人倫の世にあるは皆妻子のためなり、貞任愚なりと雖も、父子の愛は棄忘する能はず」といって貞任の召還を拒否します。
 1056(天喜4)年8月、安倍頼時は衣川を閉鎖して、公然と反旗を翻します。頼義軍には安倍頼時の娘婿の伊具郡司平永衡と亘理郡司藤原経清も加わっておりました。ところが、平永衡は自分だけ銀の兜を着けていましたので、「平永衡は兜を違わせているのは賊に対する目印で、自分を射させないためだ。」と告げ口する者がいました。頼義は平永衡を斬刑に処した。
 もう一人の娘婿の藤原経清は「安倍頼時は軽騎を放って間道を通って多賀の国府を攻めて将軍以下の妻子を捕らえようとしている」と告げ口します。これを信じた頼義は軍を多賀城に引き返しました。この隙に藤原経清は衣川の関に入って安倍軍と合流しました。この結果、源頼義は安倍氏に対する先制攻撃の好機を失いました。その後このような膠着状態が続きます。
 1057(天喜5)年7月、源頼義の陸奥守の任期が切れたので、朝廷は後任として藤原良綱を陸奥守に任命しました。しかし、良綱は合戦の報を聞いて恐れをなして辞退しました。朝廷はやむを得ず源頼義を再任します。源頼義は気仙郡司金為時下毛野興重らを遣わして、陸奥奥地の鉋屋・仁戸呂志・宇曽利に勢力を持つ安倍富忠を味方に付けました。これに驚いた安倍頼時は自ら安倍富忠の説得に赴むきました。しかし、安倍富忠は伏兵を設け2日間戦いました。このとき頼時は流れ矢があたり、鳥海の柵まで引き返して息を引き取りました。
 11月、安倍頼時の死を機に一気に残党を殲滅しようと北上した源頼義軍と、北上を阻止しようとした頼時の息子の安倍貞任が黄海で衝突しました。厳冬の吹雪のなかの戦いで、頼義軍は安倍軍に大敗します。この結果、安倍貞任の勢力は衣川以南にも及んできました。源頼義は、条件を出して、出羽に勢力を持っている出羽国の俘囚長清原一族に援軍を依頼したが、清原武則はなかなか承知しませんでした。その条件とは、頼義は清原氏に源氏の名簿を差し出すというものです。当時自分側の名簿を差し出すとは家来のなることを意味します。この場合、頼義が清原氏の家来になるということです。
10  1062(康平5)年7月、やっと清原武則は1万の大軍を引き連れて、頼義の陣にやってきました。
 8月、源頼義・清原武則の連合軍が小松の柵(一関市)を攻撃しました。小松の柵は東南に深流が流れ、後ろに切り立った岩が塞がっている要害の地でした。頼義側の決死隊が崖をよじ登って、城中に乱入しました。油断していた柵内は混乱に陥りました。
  安倍貞任軍は高梨の宿と石坂の柵にいましたが、ここに武則軍の決死隊がもぐりこんで火を放ちました。これに耐えきれず、この両柵を捨てて衣川の柵に逃げ込みました。
11  9月6日、衣川の関は道が狭くて嶮しくて、関の東側を北上川が、南側を衣川が流れて自然の要害となっていました。攻撃は三カ所から始まりました。清原武則の子清原武貞は関の道の正面から押し寄せて、頼義は西の上津衣川道を進んで、清原武則は東の関下道を進みました。戦いに午後2時から6時間に及びました。武則は決死隊を密かに柵の中に忍び込ませ、安倍宗任の腹心の大藤内業近の柵に放火させました。安倍勢はこの火災に驚き、混乱しました。このため、衣川の関は1日で陥落しました。安倍貞任は衣川の関を脱出して鳥海の柵に逃げ込みました。
12  9月11日、頼義・武則連合軍は鳥海の柵(金ヶ崎)に到着しました。この柵に着いてみるとすでに安倍宗任・藤原経清は厨川の柵に逃げてしまった後で、酒樽がありました。毒でないことがわかると、軍兵一同これを飲んで万歳を叫びました。
13  9月15日、頼義・武則連合軍は厨川の関に到着しました。厨川の関は東を北上川で、南を雫石川で隔てられ、北西には大沢があって川岸は崖となっています。柵の上には櫓を構え、川面に籾殻をまいて陸地に見せかけたり、濠を掘ってその底には白刃を逆さに立てて、地上には菱形の鉄片をまき散らしておりました。柵の中には弩を備えて遠い敵には石をとばしたり、近づくものには石を投げたり、さらに柵の下に近づくものには沸湯を浴びせました。夕顔の実に顔を書いて甲冑を着せたりしました。  頼義・武則連合軍が到着したときには、安倍方は柵の楼上から「戦はば来れ」と招きました。戦いの合間には安倍方の美女が楼に登って歌を歌い、舞を舞うなどし、頼義・武則連合軍を挑発する余裕もありました。
 16日、頼義は攻撃を開始しました。終日終夜、集めた弩を乱発し、矢石は雨のようでした。
 17日、頼義は近くの民家の屋根の萱を柵の空堀に敷き詰め、火矢を放ちました。火はたちまち燃え上がり、柵の楼に飛び火しました。柵の中が大混乱に陥っている時に、連合軍はは水を渡って攻め入りました。安倍方は必死で防戦します。清原武則はこの有様を見て、包囲陣の一画を開くように命じました。安倍方はそこに殺到しましたので、連合軍は横から猛烈な攻撃をしました。この戦いで安倍方の武将はほとんど戦死しました。
 藤原経清は捕らえられました。源頼義は、藤原経清への憎しみは強かったのか、苦痛を大きくするたに鈍刀でもって首を切り落とさせました。
14  安倍貞任は打って出ました。頼義・源義家のいずれかと刺し違えて死のうとしたのです。貞任は一度は倒され、二度刺され、最後に頼義の顔を見て絶命しました。貞任は身長6尺余り、腰の回り7尺4寸、時に34歳でした。
 安倍宗任は水を潜って柵外に逃亡します。貞任の子千代童丸は13歳だったので、頼義は許そうとしましたが、武則が「小義を思って巨害を忘れてはいけない」と進言したので、やむなく斬りました。一時は逃げていた宗任も降参しました。これで安倍一族は滅亡しました。
15  安部則任の妻は「夫が命を捨てて戦っているのに、私一人生き残ろうとは思わない。先に逝って待っていますから心置きなく戦って下さい」と子を抱いて川に身を投げましたた。
 藤原経清の妻は経清の遺児を抱いて、清原武則の子清原貞衡(のちに清原武貞と改名)に再嫁しました。
16  1063(康平6)年、貞任・重任・経清の首は京に送られました。この功績で源頼義は正4位下伊予の守に、太郎源義家は従5位下出羽の守に、清原武則は従5位下鎮守府将軍に任じられました。在地豪族が鎮守府将軍に任ぜられるのは破格のことでした。
 この項は『陸奥話記』・『日本合戦全集』などを参考にしました。
都から見た野蛮国に、高い文化が花開いていた
 阿久利川事件は源頼義の演出の可能性が高い。安部貞任が本気で襲撃しようすれば、武士である頼義がいない時の方がいいに違いない。頼義の鎮守府将軍としての任務は治安維持ですが、発展途上の武士としての任務は、ここに基盤を作りたいに違いない。子供への信任が厚い頼時に貞任を差し出せる筈がない。それを読んだ頼義の作戦で、その結果は源頼義の思うつぼでした。
 出世欲に目がくらんだ者を相手にした時に起こる悲劇です。
 源頼義は「毒を制するには毒を以てする」という格言どおりのことを実行します。冬将軍に強い陸奥の安倍氏を倒すには、冬将軍に強い出羽の清原氏を起用します。逆に清原氏は利用されて振りをして、頼義を利用したともとれます。英雄同士の腹の探りあいが、これから続きます。
 安倍貞任が衣川の関を脱して落ちのびようとした時、
 源義家が「ころものたては ほころびにけり」と呼びかけると、
 安倍貞任は振り返り「としをへし いとのみだれの くるしさに」と上の句を返したという。
 東夷とか俘囚と蔑まされていた人ではあるが、これはその長である安倍氏の文化レベルが高かったという事を物語っています。
安倍頼時 安倍貞任 千代童丸
安倍宗任 ━━━━
安倍重任   ‖
  ‖
‖━ 藤原秀衡 藤原国衡
平永衡   ‖   ‖
藤原経清   ‖ ‖━ 藤原泰衡
‖━ 藤原清衡 藤原基衡   ‖ 藤原忠衡
藤原基成
‖━ 清原家衡
清原光則 清原武則 清原武貞 清原真衡 清原成衡
清原武衡
源頼義
源義家
吉彦秀武

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