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エピソード

049_03

清和源氏の棟梁化V(後三年の役)
 当時の陸奥・出羽地方というのは、中央から蝦夷・俘囚の国と一段低く見られていましたが、馬や資源が豊富な土地でした。源義家は奥羽に興味を持っていました。
 1062(康平5)年、前九年の役の後、出羽の俘囚の長である清原武則が鎮守府将軍として清原氏の陸奥六郡をも手に入れました。
 源頼義に嫌われた藤原経清の妻は藤原清衡(7歳)を連れて、敵の清原武貞(鎮守府将軍武則の子)の後妻になりました。武貞にはすでに清原真衡という長子がいました。その後、武貞と清衡の母との間に藤原家衡が生まれます。清衡と家衡は異父兄弟、真衡と家衡は異母兄弟という不思議な兄弟が誕生しました。
 1083(永保3)年、清原家の当主は真衡です。真衡には子がなかったので、東海成衡を養子にしました。これが清原成衡で、その妻に源義家の異母妹、多気権守宗基の娘を迎えました。
 この婚礼の時に、出羽から清原氏の長老吉彦秀武がやって来ました。この吉彦秀武は清原武則の娘婿で、前九年の役の時の功労者です。秀武がお祝いを 持参した時、清原真衡は奈良法師と囲碁に熱中していて、秀武 に挨拶しませんでした。当然長老としてもてなすべきを、真衡は秀武を待たせました。
 気が短い秀武は真衡のいる部屋の庭先に行き、朱塗りの盤にうず高く砂金をもり、それを目の上に持ち上げて待ちました。しかし真衡はそれを無視し、奈良法師と碁を続けました。秀武はこれを屈辱と感じて怒り、かかげていた金の朱盤を庭に投げつけ、祝いの品を投げ捨て、出羽に帰っていきました。
 客人の前での吉彦秀武の振る舞いに怒った真衡は直ちに兵を出しました。吉彦秀武はとてもかなわないと思って、真衡の弟で、秀武の甥藤原清衡と清原家衡に助勢をたのみます。清衡と家衡はこれに応じて、兄も真衡の本拠(胆沢郡白鳥)を焼き討ちします。これに驚いた真衡は、秀武征伐をやめて引き返しました。真衡は軍備を重ねたものの両軍戦うことはなく、膠着状態となりました。 
  9月、こうした状況の時に、源頼義の子源義家が陸奥守として赴任してきました。清原真衡は義家を手厚くもてなしました(これを三日厨といいます)。そのあと真衡はまた出羽へと出兵します。
 真衡の留守をねらって藤原清衡・清原家衡が襲撃しました。真衡の妻は義家に助けを求めました。逆に、清原成衡を支援して参戦した義家の軍勢に討たれて、清衡・家衡は出羽へと逃げました。清衡にとって幸いしたのが、出羽に出兵中の真衡が病死したことです。戦いはうやむやとなりました。
 目先に便な清衡は義家に降伏しました。源義家は支配者として独断で奥州奥六郡を2つに分け、清衡には胆沢・江刺・和賀を、 家衡には稗貫・紫波・岩手を与えました。しかし、家衡はこの分配に不満を持ちます。清原家衡の父は後三年の役の功労者清原武貞で、母は滅亡した安部頼時の娘です。藤原清衡の母も滅亡した安部頼時の娘ですが、父は源頼義に惨殺された藤原経清で、正当な相続権はありません。しかも、豊かな南三郡を与えられた清衡に対し、寒冷地である北三郡を与えられたことにも家衡は不満をもっていたのです。
 1086(応徳3)年、清原家衡はこの分配を不満として、藤原清衡の館を急襲し、清衡の妻子を殺害しました。家衡は、急いで陸奥を去り、本拠地の沼柵(秋田県雄物川町)に拠って戦闘の態勢を固めました。家衡の急襲に危うく難を逃れた清衡は、源義家に支援を要請しました。義家は、清原氏を滅ぼす好機到来と考え、沼柵を攻撃しました。しかし沼柵の守りは堅く、義家側の将兵は厳しい寒さと飢えに苦しみ、ついに目的を達することなく陸奥国に引上げました。
 1087(寛治元)年、清原家衡は、叔父清原武衡(武貞の弟)の助言で、沼柵よりさらに堅固な金沢柵(秋田県横手市)に移りました。
 苦戦している源義家を助けようと弟の森羅三郎源義光や吉彦秀武が駆けつけました。義家と藤原清衡は、再度大軍を率いて出羽に進軍しました。金沢柵の守りは沼柵より堅く、難攻不落と思われていました。この陣で、様々なエピソードが生まれています。義家が空を飛ぶ雁の列の乱れから、敵の家衡軍の伏兵を知り、弓を射たという話(『後三年合戦絵巻』)。義家が陣中に剛臆の座を設けて将兵の奮起をうながしたという話。鎌倉権五郎景正の奮戦の話などです。
 11月、秀武は包囲持久作戦を進言しました。2ヵ月後、兵糧攻めに耐えきれなくなった家衡は、柵内の女・子供を柵の外へ出します。吉彦秀武の策で女・子供を柵内へと戻しました。こうした徹底した兵糧攻めで、ついに金沢柵は落ちました。
 ここまでがいわゆる後三年の役といわれます。
 義家は、清原家衡らの首を都へ持ち帰ろうとしましたが、朝廷から「私闘」とみなされ、恩賞もないという決定が知らされました。そこで、義家は都への途中で家衡ら氏の首を捨てたといいます。
 相続人で1人生き残った清衡は、父経清の姓(藤原)を名乗り、居城を江刺から衣川の南に移し、藤原四代100年にわたる黄金の平泉文化の基礎を作りました。
武士の力が、世間に初めて認知される
 源義家は朝廷に恩賞を求めましたが、朝廷は「義家の私闘」とみなして恩賞を出しませんでした。そこで、義家は自分の財産を手柄を立てた者に与えました。この時の絆が、後の源頼朝が鎌倉で幕府を開く時の柱になっています。御恩と奉公という武士の新しいシステムが読み取れます。
 16歳の若武者鎌倉権五郎景正は敵の矢に右目を射抜かれた時のことです。同僚の三浦為次が景正の額に足をかけ、矢を抜こうとしました。「武士の額に土足をかけるとは何事!」と怒った景正は、為次の足を振る払い、自力で矢を抜き、滴り落ちる血潮を厨川の流れで洗い落とし、再び敵陣へ切り込んでいったといいます。貴族とは全く違う、武士の魂とか根性が猛烈な気迫で伝わってきます。
 恩賞はもらえませんでした。しかし、義家は「天下第一武勇の士」として朝廷が禁止しなければならないほど、田畑の寄進が相次いだといいます(1091年のこと)。
 1098(承徳2)年、朝廷は貴族にとって「侍う」存在の義家(70歳)に昇殿を許可しました。武士が貴族の仲間に入ることを認めたのです。これは武士として最初の出来事です。公私共に武士が認知されたことを意味します。
安倍頼時 安倍貞任 千代童丸
安倍宗任 ━━━━
安倍重任   ‖
  ‖
‖━ 藤原秀衡 藤原国衡
平永衡   ‖   ‖
藤原経清   ‖ ‖━ 藤原泰衡
‖━ 藤原清衡 藤原基衡   ‖ 藤原忠衡
藤原基成
‖━ 清原家衡
清原光則 清原武則 清原武貞 清原真衡 清原成衡
清原武衡
源頼義
源義家
吉彦秀武 源義光

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