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エピソード

050_02

白河上皇の院政
 1036(長元9)年4月、後一条天皇(29歳)が亡くなりました。
 7月、皇太子の敦良親王(父は一条天皇、母は藤原道長の娘藤原彰子)が即位して、後朱雀天皇となりました。時に28歳でした。
 1037(長暦元)年8月、親仁親王(父は後朱雀天皇、母は藤原道長の娘藤原嬉子)が皇太子になりました。 
 1045(寛徳2)年1月、後朱雀天皇(37歳)は、尊仁親王を皇太子にする条件で、譲位しました。
 1月、尊仁親王(父は後朱雀天皇、母は禎子内親王)が皇太子になりました。
 4月、皇太弟の親仁親王が即位して、後冷泉天皇となりました。時に21歳です。
 1051(永承6)年1月、藤原頼通の娘である藤原寛子が後冷泉天皇の皇后になりました。
 1067(治暦3)年、摂関全盛期を体験した渦中の藤原頼通(78歳)が宇治に引退しました。
 1068(治暦4)年4月、後冷泉天皇(44歳)が亡くなりました。
 7月、藤原氏と外戚関係にない尊仁親王が即位して、後三条天皇になりました。時に35歳でした。
 1069(延久元)年4月、貞仁親王(父は後三条天皇、母は藤原能信の娘藤原茂子)が皇太子になりました。
 1070(延久2)年3月、関白藤原教通は、太政大臣を兼務します。
 1072(延久4)年12月、後三条天皇(39歳)が譲位しました。
 12月、貞仁親王の異母弟の実仁親王(父は後三条天皇、母は源基子)が皇太子になりました。
 12月、貞仁親王が即位して、白河天皇となりました。時に20歳でした。
 1073(延久4)年4月、後三条上皇が出家して、後三条法王となりました。
 5月、後三条法王(40歳)が亡くなりました。
 1074(承保元)年2月、前の関白である藤原頼通(83歳)が亡くなりました。
 10月、上東門院藤原彰子(86歳)が亡くなりました。
 1075(承保2)年2月、延暦寺園城寺の僧徒は、戒壇のことで抗争しました。
 9月、関白の藤原教通(父は藤原道長)が亡くなりました。時に81歳でした。
 10月、藤原頼通の長子である藤原師実が関白となりました。
 1081(永保元)年4月、園城寺の僧徒は、日吉社の祭事を妨害しました。
 6月、延暦寺の僧徒は、園城寺を襲撃し、園城寺の堂舎房宇に放火しました。
 9月、白河天皇は、源義家を園城寺に派遣して、悪僧を追捕させました。
 10月、白河天皇は、源義家と弟の源義綱に警護させて、石清水八幡宮に行幸しました。
 1084(応徳元)年9月、白河天皇が寵愛していた藤原賢子がなくなりました。藤原賢子の実父は源俊房(村上源氏)ですが、藤原師実のところへ養女に入っていました。白河天皇は、退位を考えるほど落ち込んだといいます。
 1085(応徳2)年11月、皇太子の実仁親王(15歳)が急死しました。
 後三条天皇の意向では、実仁親王の次の皇太子には、実仁親王の同母弟である輔仁親王(父は後三条天皇、母は源基平の娘源基子)ということになっていました。
 白河天皇は、藤原賢子(父は藤原師実)との間に生まれた善仁親王を皇太子する決意をしました。
 1086(応徳3)年11月、善仁親王(父は白河天皇、母は藤原賢子)が皇太子になりました。時に8歳でした。
 11月、白河天皇(34歳)が譲位して、院庁で政治をみました。これを院政のはじまりといいます。
 11月、善仁親王が即位して堀河天皇となりました。時に8歳でした。
 1087(寛治元)年12月、源義家は、後三年の役を平定しました。
 1091(寛治5)年6月、堀河天皇は、宣旨を出して、源義家が兵を率いて京都に入ることと、諸国百姓が田畑を義家に寄進することを禁止しました。
 1096(嘉保3)年8月、白河上皇が出家して、白河法皇となりました。
 1098(承徳2)年10月、白河法皇は、源義家に院昇殿を許可しました。
 ここで、院政の話をまとめてみました。
 その方法が政治の権力を天皇の母方の祖父に移すのでなく、天皇の父方に移すことです。それが院政という形態です。
 次の天皇が皇太子です。皇太子の行在所を東宮御所といいます。現天皇の行在所を御所といいます。
 譲位した天皇が上皇で、上皇の行在所をといいます。治をするので、院政といいます。
 院から出される命令のうち、上皇の命令を院宣といい、院庁(院の役所)から出される命令を院庁下文といいます。
 天皇から出される命令のうち、天皇の命令を詔勅と言い、太政官や八省から出される命令をといいます。
 2つの命令系統が存在することで、院の役人(院司)や二官八省の役人との間で対立がおこります。これが社会の不安を呼び起こすことになります。
 1101(康和3)年7月、対馬守の源義親が九州で乱暴を働きました。堀川天皇は、義親追討の宣旨をだしました。
 1102(康和4)年9月、興福寺の衆徒が狼藉を働いたので、東大寺の衆徒は、八幡の神輿を奉じて入洛しました。
 12月、源義親が隠岐に流されました。
 1103(康和5)年3月、興福寺の衆徒が強訴しました。
 8月、宗仁親王(父は堀川天皇、母は藤原苡子)が皇太子になりました。8ヶ月児です。史上最年少皇太子です。
 1107(嘉承2)年12月、堀河天皇(29歳)が亡くなりました。宗仁親王が即位して、鳥羽天皇となりました。時に4歳でした。
 12月、隠岐に流罪中の源義親が出雲の代官を殺害しました。因幡守の平正盛を追討使として、源義親を討たせました。
 1108(天仁元)年1月、平正盛が源義親を討って凱旋しました。白河法王は、論功行賞として、平正盛を但馬守としました。
 3月、延暦寺や園城寺の衆徒が強訴したので、白河法王は、源平2氏に入京を防止させました。
 1113(永久元)4月、延暦寺の僧徒と興福寺の僧徒が抗争したので、白河法王は、平正盛と源為義に鎮圧を命じました。
 10月、鳥羽天皇の天皇暗殺計画が発覚して、醍醐寺の護持僧仁寛(父は源俊房)が逮捕され、伊豆に流されました。連座の罪で、輔仁親王が閉門を命じられました。
 1116(永久4)年10月、白河法王は、熊野へ行幸しました。
 1119(永久4)年3月、白河法王は、関白の藤原忠実の上野国の荘園5000町を停止しました。
 1120(保安元)年11月、白河法王は、関白藤原忠実の文書内覧の権を停止しました。事実上の関白罷免という処置です。
 1123(保安4)年1月、顕仁親王(父は鳥羽天皇、母は藤原璋子)が皇太子になりました。時に5歳でした。
 1月、白河法王は、成人した鳥羽天皇(21歳)を退位させました。顕仁親王が即位して崇徳天皇となりました。時に5歳でした。鳥羽天皇は、鳥羽上皇となりました。
 1125(天治2)年11月、白河法王と鳥羽上皇は、熊野に行幸しました。
 1129(大治4)年7月、白河上皇が亡くなりました。時に77歳でした。
 7月、鳥羽上皇(27歳)は、父にならって院政を開始しました。
 この項は『日本史年表』などを参考にしました。
子供のためにとしたことが、子を苦しめ
 白河上皇は一代で、天下の権力と富を一身に集めました。白河上皇の有名な言葉に「鴨川の水、双六の賽、山法師、これぞ朕か心に随はぬ者」というのがあります。山法師は別として、自然以外何でも自分の意のままになるという不遜で、傲慢な人間を歴史が作り出したのです。「驕る者は久しからず」
 「英雄色を好む」という言葉があります。白河上皇は孫(鳥羽天皇)の奥さんに手を出し、鳥羽天皇の皇子(後の崇徳天皇)を生みました。これで、保元の乱を引き起こし、平安時代に幕を引く役を担うのです。
系図の説明(天皇、藤原氏、被害者)
藤原嬉子
‖━ 後冷泉
後朱雀天皇 源 基子 実 仁 親 王
   ‖ ‖━ 輔 仁 親 王
‖━ 後三条 美福門院藤原得子
禎子内親王   ‖ 藤 原 苡 子 ‖━ 体仁親王(近衛)
‖━ 貞仁親王(白河) ‖━ 宗仁親王(鳥羽)
  ‖ ‖━ 善仁親王(堀川) ‖━ 顕仁親王(崇徳)
藤原茂子 藤 原 賢 子 待賢門院藤原璋子 雅仁親王(後白河)

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