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エピソード

051_02

院政期社会の変質、知行国制とは
 知行国制を自分の言葉で喋ることは、なかなか難しい。日本語で書いている解説書を読んでも分からない。私に読解力がないのか、著者に表現力がないのか、あるいはその両方でしょうか。ここでは、色々な書物の複合体という形で紹介します。異論・疑問がある方は是非この議論に参加してください。
 まず院政期の「知行」という言葉の定義をします。
 古代では文字通り、知行は「」(仕事や職務)を「らしむ」(執行する)意味でした。
 荘園制が成立すると、仕事や職務とそれにともなう特権や収益を一体視する「」という言葉が誕生しました。院政期には、「知行」は所領を支配し、そこからの収益を得るという意味に拡大していきました。
 次に「知行国」という言葉です。「国」は播磨国など律令で定められた地方行政単位です。「所領を支配し、そこからの収益を得る」という知行の権利を与えられた国ということです。上皇や女院に与えられた院宮分国や沙汰国、給国ともいいます。
 次に「知行国主」です。「主」は人・者ですから、「知行」権を与えられた「国」の所有者という意味です。ではどんな人が所有者となったのでしょうか。公卿や高位高官の者は、官位相当制により、国守(受領)に任命されることはありませんでした。そこで、彼らに収入を得させる目的で、この制度を作ったといえます。これを知行国制といいます。
 この制度は院政期が最初でしょうか。調べてみました。10世紀頃、皇族や公卿の臨時収入の道として既に存在していました。その方法は、官位官職に就ける人を推薦する権利を与えます。官位官職に推薦された人は推薦料を皇族や公卿に支払います。
 では、どうして公卿や高位身分の者に収入を得させようとしたのでしょうか。律令時代の官位相当の制により俸禄制が崩壊し、国守(受領)と同じ方法でしか収入が確保出来なくなっていたのです。
 藤原基経は19歳で正五位下(国司クラス)、31歳で従三位(中納言)になっています。道長の子頼通は12歳で正五位下、15歳で従三位です。頼通の子教通は10歳で国司です。完全に官位相当の制が有名無実化している証拠です。
 また、法皇は多くの大寺院をつくり、しばしば紀伊の熊野詣や高野詣をくりかえすなど公共事業に多大の出費をして、国家財政をひっ迫させていました。
 「知行国主」は自分の子どもや近臣を国守に推薦して、朝廷から任命してもらいます。国司と同じ4年間、その国を知行します。権限は国守(受領)と同じです。任期は後に永代知行国化され、国衙領の私領化が進んできます。自分の土地という観念が生まれ、この観念が封建制度の基盤となっていきます。
 任命された者はほとんどが現地に行かない名目上の 国守( 名国司)で、別に忠実な人物を目代(または眼代)として現地に派遣して、実務に当たらせました。
 知行国による収入は、国内の収納物から公納物を差し引いた残りでした。
 院政のもうひとつの基盤は大量の荘園です。時の権力者に荘園は集中します。鳥羽上皇が皇女八条女院に残した荘園が220ヶ所もありました。後白河法皇が持仏堂の長講堂に寄進した荘園が180ヶ所もありました。不輸不入の権が確立しているので、自衛のため武装化する必要がありました。次代の主役の誕生です。
 国衙領から収入を得る領主に知行国守と国守(受領)とその下に目代が存在し、荘園から収入を得る本家と領家とその下に預所が存在する複雑で、屈折した社会が誕生したのです。
「百マス計算」の行く末と、自分の頭で考え、構築し、喋る大切さ!
 経済史は難しい。自分の頭で考え、構築し、喋ることの大切さを学びました。
 先日NHKTVでカリスマ教師のストップウォッチ式「百マス計算」などの実践を見ました。昔訓練を受けたクレペリン検査を思い出しました。私なら奴隷的拘束下の競争的計算主義と感じて、当然拒否したでしょう。小学生には出来ても、中学生では一斉には当然出来ないでしょう。高校なら暴動が起きるでしょう。
 日常の経験に裏付けられた能動的な智恵と、ペーパー上の訓練により得た受動的な知識とどちららが真の学力といえるか、10年後、20年後の結果を楽しみにしたいと思います。
 以下が教科書の原文です。
 「このころには知行国の制度Bが広まって、公領はあたかも知行国主や国司の私領のようになり、院政をささえる基盤となった。」
 以下が脚注の原文です。
 B上級貴族を知行国主として一国の支配権をあたえ、その国からの収益を取得させる制度。知行国主は子弟や近親者を国守に任じ、現地に目代を派遣して行政・支配を行ったが、これは徴税請負人としての受領の地位が利権化するいっぽうで、貴族の俸禄支給が有名無実化したため、貴族の経済的収益を確保する目的でうみだされたものであった。

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