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エピソード

051_03

僧兵の横暴(南都・北嶺)と武士の台頭
 私の中学校時代の秋祭りの体験です。お宮さんからお旅所まで国道2号を約1q神輿が移動します。国道端の家に寄っては「お花」(現金)を要求します。出さない家があると、神輿が玄関の戸に体当たりして壊します。神のご威光を恐れた人々は「お花」を出します。国道を右へ行ったり左へ行ったりして、進むので、国道を通行する自動車は立ち往生します。おまわりさんも祭の日は神輿を優先します。
 の乗った輿はすべての家から「お花」を頂き、国道を通行する自動車を立ち往生させます。それが神のご威光です。
 この体験を知っていれば、興福寺に位置するので南都)の僧侶が春日神社の神木をかついで朝廷におしかけ、訟を要しても、誰も止められないということは理解できます。延暦寺(都のの山の)の僧侶が日吉神社の神輿をかついで朝廷に押しかけても、摂関家でも手が出せません。もっともなことです。
 「叡山の僧徒数千人が甲冑を着て、三井寺に向い、寺塔・僧房等に放火しました。仏像・経巻のほとんどが灰になりました」という史料があります。「興福寺大衆数千人が七大寺等の諸僧を引率して、京都に行きました。春日神社の訴えを聞いてもらうためといいます」という史料もあります。神の威光と、法皇の仏教偏重主義がもたらした結果です。この時に利用された僧兵は、日常生活の奉仕をする下級僧侶です。
 熊野三山の所でも触れましたが、当時「多いことはいいことだ」という風潮がありました。ある僧は、1念仏(南無阿弥陀仏)につき豆を1粒お皿に入れました。14年間で287石になったと自慢しました。白河法皇は写経5312巻、泥塔10万基を毎年10年間行いました。後白河法皇は熊野に34回詣でています。
 律令の規定では僧侶は苦役が免除されていたので、百姓は競って出家を希望しました。しかし、統制が厳重でなかなか許可されませんでした。9世紀になると、統制が緩んだので、百姓は山門にどんどん入りました。地方の大山寺でさえ、3000人もの下級僧侶がいたといいます。
 白河法皇は「鴨川の水、双六の賽、山法師」の3つが自分の意のままにならぬと言いました。鴨川の水と双六の賽の目は今も人間の意のままになりません。しかし、僧侶は法律で規定できます。
 人為的にコントロールできる山法師を野放しにしておいて、手に負えないと、「毒を制するには毒を以て制する」の諺どおり、武士を登用することになったのです。
「毒を制するには毒を以て制する」の次にくるもの、それも古今の習い
 貴族にとって神や仏の威光がおそれて何も出来ぬほど無気力になっています。同じく貴族は大寺院に対してもその圧力に刃向かう元気もありません。
 そこで、権力者がよく使う「毒を制するには毒を以て制する」方法を採用します。「自ら墓穴を掘る」という諺もあります。その場しのぎの安易な方法がを採用すれば、それが「自分の致命傷になっていく」というのも、歴史の事実です。

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