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エピソード

052_01

伊勢平氏の台頭(平清盛)と清和源氏(源義親)の衰退
 1006(寛弘3)年、平維衡(父は桓武平氏平貞盛)は伊勢守として任地に赴きました。これが伊勢平氏の祖です。
 1016(長和5)年2月、三条天皇が譲位して、後一条天皇が即位しました。
 1031(長元4)年4月、源頼信(父は清和源氏源満仲)が平忠常の乱を平定し、関東平氏が滅亡しました。
 本来なら平氏の乱は同族の平氏に鎮圧させてるのが、今までの朝廷のやり方でした。ここで源氏に鎮圧させたことで、朝廷(権力者)は一方が問題を起こすと、他方に鎮圧させるという政策に転換したことが分かります。この結果、関東では源氏が勢力を伸ばすことになりました。
 1032(長元5)年2月、平忠常の乱平定の功により、源頼信は美濃守に任命されました。
 1036(長元9)年4月、後一条天皇が譲位して、後朱雀天皇が即位しました。
 1045(寛徳2)年4月、後朱雀天皇が譲位して、後冷泉天皇が即位しました。
 1051(永承6)年2月、陸奥国の俘囚安倍頼時が反乱しました。源頼義(父は源頼信)が陸奥守に任命されました。
 1053(天喜元)年、陸奥守の源頼義が鎮守府将軍を兼務しました。
 1056(天喜4)年8月、前九年の役が始まりました。
 1062(康平5)年9月、源頼義が前九年の役を平定しました。
 1063(康平6)年2月、前九年の役平定の功により、源頼義は伊予守、源義家(父は源頼義)は出羽守に任命されました。
 1068(治暦4)年7月、後冷泉天皇が譲位して、後三条天皇が即位しました。
 1069(延久元)年8月、村上源氏源師房が右大臣になりました。村上源氏は公家として発展する道をとりました。
 1072(延久4)年12月、後三条天皇が亡くなり、白河天皇が即位しました。
 1075(承保2)年2月、延暦寺園城寺の僧徒は、戒壇のことで抗争しました。
 1081(永保元)年4月、園城寺の僧徒は、日吉社の祭事を妨害しました。
 6月、延暦寺の僧徒は、園城寺を襲撃し、園城寺の堂舎房宇に放火しました。
 9月、白河天皇は、源義家を園城寺に派遣して、悪僧を追捕させました。
 10月、白河天皇は、源義家と弟の源義綱に警護させて、石清水八幡宮に行幸しました。
 1086(応徳3)年11月、白河天皇が譲位して、堀河天皇が即位しました。
 1087(寛治元)年12月、源義家は、後三年の役を平定しました。
 1091(寛治5)年6月、堀河天皇は、宣旨を出して、源義家が兵を率いて京都に入ることと、諸国百姓が田畑を義家に寄進することを禁止しました。
 1096(嘉保3)年8月、白河上皇が出家して、白河法皇となりました。
 1098(承徳2)年10月、白河法皇は、源義家に、武士として初めて、院昇殿を許可しました。
 1101(康和3)年7月、大宰大弐の大江匡房は、「対馬守の源義親(父は源義家)が九州で人を殺害し、官物を横領した」と朝廷に訴えました。堀河天皇は、義親追討の宣旨をだしました。
 1102(康和4)年2月、源義親は、追討使や同行の源義家の家臣である藤原資通までも殺してしまいました。
 9月、興福寺の衆徒が狼藉を働いたので、東大寺の衆徒は、八幡の神輿を奉じて入洛しました。
 12月、源義親は、父の源義家の命で捕らえられて、隠岐島に流されました。
 1103(康和5)年3月、興福寺の衆徒が強訴しました。
 1106(嘉祥元)年7月、源義家(68歳)が亡くなりました。
 1107(嘉承2)年7月、堀河天皇(29歳)が亡くなりました。
 12月、宗仁親王が即位して、鳥羽天皇となりました。時に4歳でした。
 12月、隠岐に流罪中の源義親は、国守である藤原家保の目代らを殺し、官物を奪いました。そうなると、近隣諸国も源義親に同調するようになりました。そこで、清和源氏は同族の源義親追討を願い出ましたが、朝廷は摂関家の藤原忠通と通じていた因幡守の平正盛(曽祖父は伊勢平氏の平維衡)を追討使に任命しました。
 1108(嘉祥3)年1月6日、平正盛が出雲に到着しました。
 1月19日、「雲戸城で源義親殺害」という報告が朝廷にもたらされました。朝廷は、帰洛を待たずに平正盛を但馬守に任命しました。この事件で平正盛は武勇を高め、源氏は武家の棟梁の座から滑りおちました。
 3月、延暦寺や園城寺の衆徒が強訴したので、白河法王は、源平2氏に入京を防止させました。
 1113(永久元)年4月、延暦寺の僧徒と興福寺の僧徒が抗争したので、白河法王は、平正盛と源為義(父は源義親)に鎮圧を命じました。
 1119(元永2)年5月、平正盛に京中の強盗を逮捕させました。
 12月、平正盛が九州の賊を討伐しました。
 1123(保安4)年2月、鳥羽天皇が譲位して、崇徳天皇が即位しました。
 7月、延暦寺の僧徒が蜂起し、天台座主の覚慶を追放し、入京を企てました。そこで、平忠盛(父は平正盛)・源為義らに入京を防がせました。
 1129(大治4)年3月、備前守の平忠盛が山陽・南海両道の海賊を追捕しました。
 7月、鳥羽上皇が院政を開始しました。
 11月、源為義が興福寺僧徒の騒擾を鎮定しました。
 1132(長承元)年3月、平忠盛(36歳)は、鳥羽上皇のために千躰観音堂(三十三間堂)を造営しました。鳥羽上皇は、平忠盛の昇殿を許可しました。その時、源為義(37歳)は陸奥守を希望しましたが、拒否されたので、「それならば、どの国の守にもならぬ」といって、検非違使だけを通していました。
 1135(保延元)年6月、平忠盛は、海賊の首領を捕まえた功により、鳥羽上皇より褒章を得ました。
 1139(保延5)年3月、平忠盛は、興福寺僧徒の入京を宇治・淀で防ぎました。
 1141(永治元)年12月、崇徳天皇が譲位して、近衛天皇が即位しました。
 1143(康治2)年6月、源為義は、内大臣の藤原頼長に従いました。
 1146(久安2)年1月、源為義を左衛門大尉に復帰させました。
 2月、平清盛(父は平忠盛)を安芸守に任命しました。
 1147(久安3)年6月、平清盛がD園社神人と闘ったので、延暦寺の僧徒は、平忠盛・平清盛父子の流罪を要求しました。
 7月、鳥羽上皇は、平清盛に贖銅30斤を課しました。
10  1154(仁平4)年11月、源為朝(父は源為義。兄が源義朝)が鎮西で乱暴を働きました。源為朝は源氏の嫡流であり、身体が強大で武勇に優れていましたが、なかなか希望する官職につけなかったので、そのエネルギーのはけ口として暴れまわったのです。
 朝廷は、息子源為朝の行動を制止できなかったとして、父源為義の唯一の官職である検非違使をも取り上げました。
 1155(久寿2)年4月、鳥羽上皇は、源為朝に協力する者を禁圧するよう大宰府に命令しました。
 7月、近衛天皇が亡くなり、後白河天皇が即位しました。
 8月、源義平(父は源義朝。弟は源頼朝)が叔父源義賢(父は源為義。兄は源義朝)を殺害しました。清和源氏は、いよいよ落ち込んでいきました。
 この項は『日本史年表』などを参考にしました。
権力者に気に入られた平氏と、避けられた源氏
 権力者はライバル同士を競わせ、エネルギーを消耗させ、自分への敵意を削いで行きます。しかし、相手を飲み込んだ者は、その過程で、権力者を上回る実力を身につけていきます。
 ここでは、平氏から見れば、権力者にゴマをすり、どんどん出世しているように見えますが、権力者は平氏を利用して、源氏と競わせているのです。利用価値のない源氏は惨めに映ります。
桓武 国香 貞盛 維衡 正度 正衡 正盛 忠盛 清盛
‖━ 葛原親王 高見王 平高望 良将 將門 忠政 経盛
多治比 良文 忠常 忠度
義平
棟貞 義朝 頼朝
 ‖━ 貞純親王 源経基 源満仲 頼信 頼義 義家 義親 為義 為朝 範頼
清和 頼光 義綱 行家 義経
義賢 義仲

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