print home

エピソード

052_02

保元の乱(原因1−天皇・上皇の対立)
 @白河法皇は祗園の女御に養育させていた藤原璋子(17歳)を自分の子ども(15歳。後の鳥羽天皇)の中宮にします。
 待賢門院藤原璋子とA鳥羽との間に生まれたのが、崇徳と後白河です。
 B崇徳は白河法皇の子と噂され、鳥羽は崇徳を「叔父子」(おじご)と呼んでいました。
 1123(保安4)年1月、顕仁親王(父は鳥羽天皇、母は藤原璋子)が皇太子になりました。時に5歳でした。
 1月、白河法王は、成人した鳥羽天皇(21歳)を退位させました。顕仁親王が即位して崇徳天皇となりました。時に5歳でした。鳥羽天皇は、鳥羽上皇となりました。
 1129(大治4)年1月、摂政の藤原忠通の娘である藤原聖子は、崇徳天皇の女御となりました。
 7月、白河法王が亡くなりました。時に77歳でした。
 7月、鳥羽上皇(27歳)は、祖父にならって院政を開始しました。
 1132(長承元)年3、平忠盛は、鳥羽上皇のために千躰観音堂(三十三間堂)を造営しました。鳥羽上皇は、平忠盛の昇殿を許可しました。
 1139(保延5)年8月、体仁親王(父は鳥羽天皇、母は藤原公実の娘藤原得子)が皇太子となりました。時に4カ月児でした。鳥羽上皇が皇太子になったのが8ヶ月でしたから、記録更新です。
 父の白河法王に反対されていた藤原得子を、父の死後、鳥羽上皇が娶り、体仁親王が生まれました。
 1141(永治元)年12月、崇徳天皇(23歳)は「父」の鳥羽上皇に強要されて譲位しました。
 12月、「父」が鳥羽上皇である体仁親王が即位して、C近衛天皇となりました。時に3歳でした。その結果、藤原聖子が皇太后(先帝の后)、藤原得子が皇后となりました。
 1155(久寿2)年7月、近衛天皇(17歳)が亡くなりました。
 7月、鳥羽上皇は、重仁親王(父は崇徳天皇、母は法印信縁の娘)を差し置いて、崇徳上皇の同母弟である雅仁親王(父は鳥羽天皇、母は藤原得子)を即位させました。D後白河天皇です。こ時に29歳でした。
系図の説明(天皇、藤原氏、今回の登場者)
藤原忠実 藤原忠通 藤原聖子
藤原頼長
━━藤原泰子
藤原公実 藤原得子
藤原苡子 ━━ 体仁親王(近衛天皇)
白河天皇 ‖━ 鳥 羽 天 皇 ‖━ 重仁親王
  ‖   ‖   ‖ 法印信縁の娘
‖━ 堀川天皇 ‖━ ━┳ 顕 仁 親 王(崇 徳 天 皇)
藤原賢子 藤原璋子 ━━━━ 雅仁親王(後白河天皇)
保元の乱(原因2−摂関家の内紛)
 藤原忠実(鳥羽上皇の妃得子の父)は、兄の藤原忠通より勉強家の弟藤原頼長を可愛がりました。忠実は得子を鳥羽の妃にしようとして、白河法皇に怒られ、しかたなく関白を長子の忠通に譲りました。
 1105(長治2)年12月、藤原忠実が関白になりました。
 1107(嘉祥2)年12月、鳥羽天皇(5歳)が即位しました。
 1108(天仁元)年7月、関白の藤原忠実は、鳥羽天皇の摂政になりました。
 1113(永久元)年12月、摂政の藤原忠実が再び関白になりました。
 1119(元永2)年3月、関白藤原忠実の上野国荘園5000町歩が停止されました。
 1122(保安3)年12月、太政大臣に源雅実、左大臣に藤原忠通(父は藤原忠実)、右大臣に藤原家忠が任命されました。
 1123(保安4)年1月、崇徳天皇(5歳)が即位しました。
 1月、左大臣の藤原忠通が崇徳天皇の摂政になりました。
 1128(大治3)年12月、摂政の藤原忠通が太政大臣になりました。
 1129(大治4)年1月、摂政の藤原忠通の娘である藤原聖子は、崇徳天皇の女御となりました。
 7月、白河法王が亡くなりました。時に77歳でした。
 7月、鳥羽上皇(27歳)は、祖父の白河法皇にならって院政を開始しました。鳥羽上皇の時代です。祖父の白河法皇に反対されていた藤原得子(父は藤原公実)を妃としました。
 7月、太政大臣の藤原忠通が再び関白になりました。
 1136(保延2)年12月、藤原忠通の弟である藤原頼長(父は藤原忠実)が内大臣に抜擢されました。
 1139(保延5)年8月、体仁親王(父は鳥羽天皇、母は藤原公実の娘藤原得子)が皇太子となりました。時に4カ月児でした。鳥羽上皇が皇太子になったのが8ヶ月でしたから、記録更新です。
 1141(永治元)年12月、体仁親王が即位して、近衛天皇(3歳)となりました。
 12月、関白の藤原忠通が近衛天皇の摂政になりました。
 1143(康治2)年6月、源為義は、内大臣の藤原頼長に従うようになりました。
 1145(天養2)年2月、藤原忠実は、律令格式・除目叙位官奏などの秘記を次子の藤原頼長に譲りました。この結果、父の藤原忠実・次子の藤原頼長は、長子の藤原忠通との対立が表面化しました。
 1147(久安3)年11月、摂政の藤原忠通は、西海の荘から得た孔雀・鸚鵡などを鳥羽法王に献上しました。
 1148(久安4)年7月、摂政の藤原忠通の妻は、新堂を法成寺に供養しました。鳥羽法皇・近衛天皇らが行幸しました。
 7月、藤原忠実は、荘園18ヶ所を次子の藤原頼長に譲りました。
 1149(久安5)年、藤原頼長(30歳)が左大臣になりました。
 10月、藤原忠通が再び太政大臣になりました。
 1150(久安6)年8月、長子の藤原忠通は、父の藤原忠実の命令に背いて、次子の藤原頼長への摂政の譲与を拒否しました。
 9月、父の藤原忠実は、長子の藤原忠通より「藤氏長者」を奪い、次子の藤原頼長に与えました。
 この結果、父の藤原忠実・次子の藤原頼長は、長子の藤原忠通との対立が決定的となりました。
 1150(仁平元)年1月、左大臣の藤原頼長が内覧になりました。内覧とは、「天皇に奉られる文書を、それに先立って見て政務を処理すること」をいい、摂政とか関白、または特に宣旨を受けた大臣がその任務に当ります。ということは、関白の藤原忠通の任務を取り上げられたことを意味します。
 9月、関白の藤原忠通は、弟の藤原頼長の異心を鳥羽法皇に密告しました。
 1153(仁平3)年5月、内覧の藤原頼長が院の別当になりました。
 1155(久寿2)年7月、近衛天皇(17歳)が亡くなりました。
 近衛天皇の母である美福門院得子は、「近衛天皇の死は、藤原頼長らの呪咀が原因である」と鳥羽法皇に訴えました。その結果、藤原頼長は鳥羽法皇の信を失いました。そこで、藤原頼長は、鳥羽法皇に譲位を迫られたことに不満を持つ崇徳上皇に接近しました。
 7月、雅仁親王(父は鳥羽天皇、母は藤原得子)が即位して、後白河天皇(29歳)となりました。
保元の乱(原因3−源平の事情)
 崇徳上皇と藤原頼長は源為義・為朝親子、平忠正(平忠盛の弟)を強引に味方につけました。
 この動きを知った崇徳上皇の弟後白河天皇と藤原忠通は源義朝(父は為義。為朝は弟)、源頼政(先祖は摂津多田源氏の源頼光。義朝は頼光の弟頼信の系統)、平清盛(父は忠盛。忠正は清盛の伯父)を召集しました。
系図の説明(崇徳上皇側、後白河天皇側)
平 正盛 平 忠盛 平 清盛
平 忠正
源 頼信 源 為義 源 義朝
源 為朝
源 頼光 ………… 源 頼政
藤原忠実 藤原忠通
藤原頼長
鳥羽天皇 崇徳上皇
後白河天皇
紀伊の局
━━┛
(乳母)
藤原通憲(信西)
保元の乱(経過)
 1156(保元元)年7月2日、鳥羽法皇が亡くなりました。時に54歳です。崇徳上皇(38才)が弔問に訪れました。しかし、弟の後白河天皇(30歳)は父の「遺詔」と称して兄の弔問を断りました。
 7月10日、崇徳上皇は頼長・源為義・為朝親子・平忠正を召集して軍議を諮りました。為朝は天皇側に自分の兄義朝がいることを知り、即戦即決を提案しました。
 「私は今まで20余回も合戦を経験しました。敵を倒すに方法で、夜討ちに勝るものはありません。夜明け前に、私が内裏高松殿に押し寄せ、三方から火をかけます。一方から火を逃れてくる者は矢で射とめます。矢を逃れようとする者は焼死にます。兄義朝も奮戦するでしょうが、私が内兜を射て殺します。清盛なんかのへろへろ矢など何が出来ましょう。後白河天皇も他の場所に逃れようとするでしょう。そのとき、私がが矢を射れば、かごかきは御輿を捨てて逃げるでしょう。そして、この御所に天皇を招いて譲位させます。そうなれば、崇徳上皇殿が重祚(重任)されることは間違いありません」
 しかし、貴族で学者肌の藤原頼長は「為朝の計は、乱暴で無思慮である。まだ若い。夜討ちなど、十騎二十騎の私戦でやることであって、天皇、上皇が国を争うような戦に相応しい方法ではない。明日には南都の軍勢が到着するので、これを待つべきである。今夜は御所を守護すべきである」といって、為朝の提案を退けました。この時為朝は「戦の道をば武士にこそまかせるべきに、道にもあらぬ御はからひ、いかがあらむ、口をしきことかな」と嘆いたと『保元物語』に書かれています。
 7月11日、後白河天皇は藤原忠通・藤原信西・源義朝・源頼政・平清盛を招集して軍議を諮りました。義朝の提案で、その夜のうちに奇襲攻撃をかけることになりました。その場で、義朝の軍勢250騎、清盛の軍勢600騎、兵庫頭頼政100騎、陸奥新判官(足利)義康100騎など、総勢1500騎が上皇側を攻撃しました。
 圧巻は上皇側の源為朝と天皇側の武将との戦いです。
 為朝の放つ矢は、先陣平清盛の先鋒伊藤六の鎧の胸板を貫きました。この報告を受けた清盛は逃げ腰になります。その中で為朝に刃向かったのが山田小三郎是行です。しかし、為朝の矢は、是行の鞍の前輪から是行を貫いて、尚尻輪まで射通していました。天皇側の武将がひるみます。
 これをみた義朝はみずから出陣しますが、兄を射殺すのは忍びないと考えた為朝は、わざと義朝の兜をかすめて射ました。為朝の弓勢に胆を冷やした義朝はその場を退き、一騎打ちをあきらめ、御所の北から火を放ち、白河殿を焼き討ちします。この攻撃に耐えきれず、ついに上皇側は敗北します。
 崇徳上皇は讃岐に流罪となりました。藤原頼長は取調べ中に舌を噛み切って自害しました。武士の処分は、信西と清盛の主張によって、斬首と決まりました。長い間、斬首の刑は途絶えていたのを、清盛らの強い主張で復活したのです。
 これにより、平氏は忠正1人が処分されました。しかし、源氏は為義やその他一族の多くが斬首されました。重病で温泉で治療しているところを捕まった為朝は腕の筋を抜かれ、伊豆大島に流されました。
武士は多くの犠牲を払う、でも武士の力が政権の帰趨を決定
 権力を持っていた天皇は無味乾燥な無謬性を誇示することなく、人間を主張していました。
 頼長の権力引き降ろし作戦も、美福門院得子が仕掛けた事になっていますが、その裏には忠通や後白河天皇も連なっていた可能性があります。
 源為朝が「戦のことは武士にまかせよ」という自己主張が武士の成長を裏付けています。リーダーは部下の多くの情報から適切な情報をすくいとり、決定・実行する必要があります。
 この項は『日本合戦全集』と『歴史群像』を参考にしました。

index