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エピソード

052_03

平治の乱
平治の乱(背景)
 1158(保元3)年、藤原信頼(父は従三位忠隆。母は中納言藤原顕頼の娘)はゴマスリが得意で、後白河天皇の寵愛をうけ、参議に昇進します。後白河が上皇となると、信頼は院別当となり強大な権力をもちます。
 藤原通憲(父は藤原南家の実兼。母は源有房の娘)は南家出身のために北家に比して不遇で、官位は少納言・正五位下でした。
 1144(天養元)年、出家して藤原信西と名を変えました。妻の藤原朝子紀伊の局)が雅仁親王の乳母となりました。
 1155(久寿2)年7月、雅仁親王が即位して後白河天皇(29歳)となりました。乳母とは実母に代わって母乳を飲ませる役割だけに、後白河天皇にとっては命の恩人です。そんな関係で後白河天皇は藤原信西を重用するようになりました。
 9月、守仁親王(父は後白河天皇、母は藤原懿子)が皇太子になりました。時に13歳です。
 1156(保元元)年、保元の乱がおきました。この時、藤原信西は源義朝の意見を容れて崇徳上皇側を破りました。そのため、後白河天皇の信任がより厚くなりました。
 1158(保元3)年8月、後白河天皇が譲位して、守仁親王が即位して、二条天皇となりました。時に16歳です。
 8月、後白河上皇が院政を開始すると、藤原信西は平清盛と結び、より権力を誇るようになりました。藤原信頼が近衛大将を希望した時、信西に反対で拒否されるという事件がありました。
 保元の乱の第一の功労者である源義朝は正五位下・左馬頭でした。他方、後白河上皇をバックにして権力を握る藤原信西と結んだ平清盛は、正四位下・播磨守でした。あせった源義朝は藤原信西に接近しようと、信西の子の藤原定憲を婿にしたいと申し出ると、「自分の娘は田舎侍にはやれぬ」と恥をかかせた上、拒否されました。
 そこで反信西派の藤原信頼と源義朝が手を結び、それに二条天皇親政派の藤原経宗藤原惟方ら参加しました。かれらは信西誅滅・清盛打倒のクーデターを計画します。
系図の説明(藤原信頼・源義朝側、後白河上皇・藤原信西・平清盛側)
平 正盛 平 忠盛 平 清盛 平重盛
源 頼信 源 為義 源 義朝 源 義平
源 朝長
源 頼朝
源 範頼
源 頼光 ………… 源 頼政 源 義経
藤原道隆 ………… 藤原忠隆 藤原信頼
鳥羽天皇 崇徳上皇
藤原懿子
‖━ 二条天皇
後白河天皇
紀伊の局
  ‖
━━┛
(乳母)
‖━ 藤原定憲
藤原通憲(信西)
平治の乱(経過)
 1159(平治元)年12月4日、平清盛はこのクーデター計画を知ってか、知らずか、嫡子平重盛ほか平氏一門を連れて、熊野参詣に出発しました。
 12月9日、平清盛の留守に、藤原信頼と源義朝は三条殿を襲撃して後白河上皇を内裏に移して、二条天皇と共に幽閉しました。信頼・義朝は藤原信西を探したがいなかったので、西の洞院の信西の邸宅を焼き払いました。
 信頼らはほしいままに除目(人事)を行いました。信頼は念願の近衛大将になり、義朝は清盛から播磨守を奪って、その地位に就きました。源頼朝(父は源義朝)を右兵衛祐に任ずるなど、源氏一門、公家同志に官位を与えました。
 12月10日、平清盛は境の大鳥神社でこのクーデターを知りました。
 12月13日、田原(大和綴喜郡)に隠れていた藤原信西は土室からに引きずり出され、斬首された後、京都でその首がさらされました。
 急遽、六波羅に帰った清盛は変心した藤原経宗・藤原惟方らと連絡をとりあいました。
 12月20日、源義朝らの兵が厳重に警戒する中を、二条天皇は女装して御車にのり、内裏からの脱出に成功しました。この時、同族の義朝を裏切って、活躍したのが源三位頼政源頼政)です。頼政は、義朝の清和源氏とは違う源氏で、摂津多田源氏の出です。
 12月25日、後白河上皇も脱出に成功し、平清盛に源義朝追討の命令を出しました。「時しも年号は平治、所は平安の都、われらは平氏、三拍子そろっている。勝利はまさしくわれらのものぞ。振るえや人びと」と平家側は大いに意気が上がりました。
 12月26日、平清盛は藤原信頼・源義朝が占拠する大内裏を攻撃しました。総大将の信頼は、戦いの前の極度の緊張から、乗りかけた馬から落ちてしまいました。これを見た義朝方の武士たちは「貴族は…物の用にもあふべしとも見えざリけり」と言ったといいます。
 平治の乱で最大の見せ場が待賢門での源義平(19歳。父は源義朝)と平重盛(22歳。父は平清盛)の一騎討ちです。紫宸殿の椋の木を中心に、左近の桜、右近の橘のまわりを、義平は「組もう、組もう」と8度まで重盛を追い回し待賢門の外まで撃退しました。
 そこで、平氏は作戦を変更し、源氏の軍を内裏からおびき出すため、攻めては退き、退いては攻めました。そして、この計略に源氏はひっかかり、内裏から出たところを、平氏軍が横から内裏に進入し、門を閉じてしまいました。ついに、平氏は内裏を占領しました。
 次に源氏は、義平を先陣に平氏の本拠である六波羅に向かって進撃し、六条河原で交戦しました。しかし、大将の藤原信頼は怖じ気づいて敵前逃亡してしまいました。また、ここでも源氏の一族である源頼政が形勢を見るだけで、兵を動かしませんでした。そのため源氏は総崩れとなりました。
 逃げていた藤原信頼は源義朝に一緒に東国に連れていってくれるように懇願しました。このとき義朝は「日本一の不覚人、かゝる大事を思い立て、一戦だにせずして、我身も滅ぼし人をも失ふにこそ。面つれなう物をのたまふのもかな」(「この腰抜けが! 大謀を企てながら一度も戦わず、己を滅ぼし、あまつさえ他人の命をもあたら失った! どのツラ下げて頼みを言う!」)と怒鳴りつけ、手にした鞭で信頼の左の頬を打ったといいます。源義朝は、さぞつらかったのでしょう。先祖からの遺産をすべて無くしてしまったのですから。
 その後、信頼は後白河上皇に助命したが許されず六条河原で斬られました。
 源義朝は東国に逃れる途中、尾張知多郡で家臣の長田庄司忠致に裏切られて、湯殿で殺害されます。
 また、源義平は北陸で兵を募るために美濃で父源義朝と別れますが、後日義朝の死を知り、平清盛の暗殺を謀り入洛しました。しかし捕らえられて、六条河原で斬首されました。 
 深傷を負った次男の源朝長も父義朝と共に東国をめざしますが、平氏に首をとられるより父の手によって死ぬことを願い、義朝の介錯で自害しました。
 義朝の第三子源頼朝(13歳)は東国に落ちのびる途中、義朝とはぐれ迷っているところを平氏に捕らえられました。頼朝に幸いしたのは、清盛の義母である池ノ禅尼が頼朝を一瞥したことです。先に亡くなった池ノ禅尼の子どもにそっくりだったので、池ノ禅尼は清盛に助命を嘆願しました。一命は助けられた頼朝は、伊豆蛭島に配流されました。
 牛若(後の源義経)は母・常磐御前に連れられて落ちのびましたが、途中捕らわれました。清盛は、常磐御前を「自分の妾になるなら、今若、乙若、牛若の命を助けよう」と条件を出し、常盤御前が承知したので3人は助かりました。牛若は成人後、僧侶になる条件で、京都鞍馬寺へ預けられることになりました。時に源義経は2歳でした。
 平氏は、平清盛が後白河法皇に重用されて従一位太政大臣にまで出世し、一族は我が世の春を謳歌することになります。
 この項は『日本合戦全集』と『歴史群像』を参考にしました。
「貴族は…物の用にもあふべしとも見えざリけり」、最初の武士政権の誕生
 平治の乱で見えたことは、権力者に取り入って出世する者はまた、権力者から見捨てられるという厳しい現実です。
 悪源太(源は源氏、太は長子、悪は強い)義平(強い義朝の長子義平の意味)のような武士が登場してきたという現実です。
 文字(『平治物語』)上、源三位頼政が同族を見捨てたというように映っていますが、義朝系の源氏が滅んでも、摂津多田の源氏が生き残れば、源氏は生き残る。こういう考え方が武士の生き方なのです。現在の目線で歴史を見ることの危険性を教えてくれます。
 クーデタの後の迅速な処理を見たとき、平清盛は既にクーデタを予知していたと思います。先を読むのでなく、先の先を読むということがリーダーの条件です。
 水戸黄門や遠山金さんや暴れん坊将軍の様に、事件を起こすだけ起こさせて、人を殺すだけ殺させておいて、これ(葵の印籠、桜吹雪の刺青、葵の紋所)を見せて、「これが目に入らぬか」の一件落着では、しゃれにもなりません。事前に問題を起こさせない様にするのが筋でしょう。それではドラマ(作り話)の筋になりませんか。「おそれいりやした」。

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